浦沢直樹『PLUTO』の読書感想文
先日、浦沢直樹の『PLUTO』を全巻読んだ。手塚治虫の鉄腕アトムの『地上最大のロボット』が原作である。2003年から2009年に連載されていた作品だ。
連載中、コミックを買って読んでいたはずなのだが、あまり覚えていなかった。
人工知能(AI)とロボットは、今日のほうが、よりリアリティがあり、身近な起こりうる未来として読めることに驚いた。連載当時は、こんなすごいロボットが生まれるはずがないとたかをくくっていたのだが、そうでもなくなってきている。
ロボットは「記憶(データ)」を忘れない。データとして蓄積されていく。一方、人間は適当なので、簡単に忘れられる。あらゆることを忘れないロボットが、残酷な人間の悪行三昧のデータに基づき、「感情」を持つ可能性はゼロではない。
ロボットが膨大なデータから「感情」を持ち、人間に復讐をはじめたら、どうなってしまうのだろう。
人間のすごいところは、自らがコントロールできないものを純粋な好奇心から作ってしまうところにある。危ないことは重々承知の上で、やってしまう。これは病的だ。原爆(原発、核兵器)も、コントロールなどできやしない。きっと、三歳児でも操作できる超高性能ドローンも作るようになるのだろうし、人間にそっくりな精巧なロボットも作ってしまうのだろう。
しかし、野蛮な人間たちは、ロボットの権利を尊重できるのだろうか、という疑問が残る。そして、ロボットは従順に我慢し続けることができるのだろうか。
ロボットは感情を持つのか。それは「YES」だ。ロボットは人間が作るのだから、いずれ「感情」を搭載できるだろう。それは『PLUTO』で指摘されている「憎悪」なのかもしれない。
父親に捨てられたアトムの「悲しみ」が、手塚治虫の『鉄腕アトム』を貫くテーマだったではないか。
映画『アイム・ユア・マン』も、人間とロボットの共存がテーマである。ロボットが人間をケアしてくれる。そこには夢と希望、そしてほの暗い絶望がある。
わたしなんかは、話し相手になって、愚痴を聞いてくれるロボットが売り出されたら買ってしまうような気もする。フォルムは、やっぱり、ドラえもんの小さいやつ、ミニドラがいいなあ。