老いるのが怖い
一日の勤務を終えて電車に乗ると、運良く座れた。ぼうっとしていると、隣の人たちの会話が耳に入ってきた。わたしの隣に座っているのは二十代前半の女性と五十代ぐらいの男性で、部下と上司のようであった。
女の子は「老いるのが怖いんで、ジムに行き始めたんです。健康寿命を延ばすために頑張らなきゃ」と高い声で、どこか脅えたようにそう言った。他愛のない会話ではあるが、二十代女子が五十代おじさんに老いるのが怖いと言ってしまうのは、どこか滑稽でもあった。
そういえば、わたしも老いるのが今でも怖いし、若いときからずっと怖かった。若さには価値があるという、絶え間のない刷り込みに洗脳されてしまったということもあるし、若さのまぶしさと輝きは、若くなくなってからのほうが理解できたりする。
若者とは、残された時間が膨大にあり、可能性のかたまりであるという合意が社会にはある。学業であれ、仕事であれ、社交であれ、恋愛であれ、生殖であれ、若い方がチャンスは多い。若い人は特別なパスポートを持っているのだ。とはいえ、そのパスポートをどぶに捨てる馬鹿もいる。わたしのことだ。わたしは若いころに、若さをうまく使えなかった。若いうちに周りより先んじなければと無駄に焦って空回りして今に至る。でも、若いからといって、多くのチャンスに恵まれるわけでもないし、チャンスを生かせるとも限らない。臍を嚙むことのほうが多かった。
若いうちから、年相応のことをきちんとできている人は、それこそ人生の標準コースを歩めるのだろうけれど、それはそれで相当に器用だと思う。
老いるのが怖い気持ちはずっと続いていくのだろう。周囲から蔑まれたり、弱い生き物だと思われて攻撃されるのは怖い。それは幼少時に感じていた恐怖とも似たものだろう。
死ぬのは少しも怖くないが、意識が失われることは怖い。わたしの主観が、突然、途絶えることは怖い。だから、自分を忘れてしまう認知症はとても怖い。でも、若いころと比べると、自分らしさなんてものは、本当にどうでもよくなってしまった。自分の本音がどこにあるかもよくわからない。会社では与えられた役割を演じて儀式をこなし、プライベートでは市民の範囲を逸脱しないように生活するだけで、自分なんてどこかに消えてしまった。若いときにあれだけ拘泥していた個性なんてものは、もはや幻である。
五年ぐらい前、銭湯の脱衣所で、「あんたいくつ?」「七十五歳」「うそ、あんた若いね~」「そっちだって若いじゃないの。いくつなの?」「八十七歳」「やだ、若いねえ」というガールズトークを耳にして、正直、カオスだと思ったけれど、もしかしたら、わたしたちは永遠に若いのかもしれないとも思ったのも事実である。百歳になって、九十の若者を捕まえて「あんた、本当に若いね~」と言えたら、老いることも怖くなくなっているに違いない。