正解とは何なのか
「人生に正解はない」とか「自分のしてきた選択を正解にしていくしかない」とか、正解であるかどうかは、多くの人が気にしていることらしい。
学習到達度を測定するテストには、もちろん正解がある。しかし、人間関係や社会、人生には、これが正解というものは、あまりなかったりする。正解を探し出す能力より、曖昧さやグレーゾーンを許容する能力のほうが重宝される。
しかし、「私は正解を知っている」という立場をとる人は少なからずいる。それが専門性と呼ばれるものだったりもする。あなたの専門性を買う、ということは、しばしばある。みんな正解や最適解を求めているのだろう。
ただ、ここ最近思うのは、世の中には「どちらでもいいこと」「グレーゾーン」だけでなく、「どうでもいいこと」も結構あるのではないかと思う。
広告代理店やコピーライターがキャッチコピーの一言一句にこだわったところで、消費者はまともに読んでいなかったり、読んだところで秒で忘れる。そのようなキャッチコピーの会議が数時間なのか、数十時間なのかはわからないが、「どうでもいいこと」に膨大な時間が費やされている。(仕事だからやるしかないのだろうけれど)
あとは、自分が正解であってほしい、という欲求は強く感じる。学歴や所属している会社、未婚、既婚、離婚、子どもがいる、いないなど、自分の選択は間違っていなかったと証明するために、自分とは違う属性の人々を貶めたりする。でも、それって本当に不毛だ。自分が選ばなかった(選べなかった)道を歩んでいる人をけなしたところでランクアップするわけでもない。「私の人生は正解だ(と思いたい)」というのは悲痛な叫びにも見える。人生はなりゆきで、偶然の積み重ねに過ぎないので、そもそも全部正しくて全部間違っているぐらいに思っておいたほうがいいのではないかと思う。
そういえば、新興宗教に入信してしまった友人は「無意味な無駄な会議にうんざりする。何の意味も感じない」と零していた。「どうでもいい」というジャッジメントや虚無感も、案外に危ういものなのかもしれない。ただ、思考を深め、話し合いに時間をかければ、正解にたどりつける、というの楽観的すぎる。無駄な会議は切り上げて見切り発車で失敗して作戦を変更した方が効率がよいと思う。