幸福な子ども時代
久々に博物館へ行き、美術館と比べると、子ども連れの家族が多いことに気付いた。
写真を撮りまくっている男の子、親にクイズを出されている女の子。こういう週末を過ごせる子どもはいいな、と素直に思う。親に余裕のある子どもと、週末も労働に追われている親の子どもでは、のちのち大きな差がつくのだろう。わたしも、ないことはなかったけれど、安定していなかった。
自分の子ども時代を取り戻すために、自分がいい親になるべく、家族を作る人がいる。その気持ちは理解はできるのだが、どうにも腰が重く、婚活も妊活もまったくリアリティがない。
不幸の再生産になるとまでは思っていないが、自分が家族や人生を肯定できていないのに、子どもを作るのは、子どもに悪いと思っている。人生は素晴らしいと確信ができた人だけ、子どもを持てばいい。「人生はつらいことばかりだけど、とにかく頑張れ」というのは、あまりにも無責任だ。
反出生主義や優生思想も部分的には理解できてしまうし、同じ部分もあるのだろうと思う。優生思想的な反出生主義者の人たちが、SNSで子どもを持った人たちを執拗に攻撃する背景には、不幸で満たされない子ども時代がちらつく。根底には怒りと悲しみがあり、人生を肯定できずにいる。少子化が進んでいるのは賃金水準が低いといったことだけでなく、自らの子ども時代と折り合いがつけられず、家族に対して嫌悪感を持つ人が一定数いるのだと思われる。で、そんな彼ら、彼女らが、子持ちの愚痴に過剰反応したりするのは、やはり、自分自身の問題と向き合えていないからなのだろう。まともな人はよそ様の家庭を正そうとしたり、糾弾したりはしない。ちらりと見て、流すのが普通だ。何かを思っても、わざわざ本人に伝えたりはしない。ただ、それだけ子ども時代のトラブルは、年をとっても本人が取り乱してしまうような、根深いトラウマとして残り、本人と周囲を不幸にしてしまう威力があるのだ。
もちろん、すでに生まれた子どもは、全員大事にしなければならない。それは先に生まれた人間が言わなければならない責務である。存在する命を否定するのは絶対に間違っている。
しかし、幸せを感じていない人は親にならないほうがいい、という考えは変わらない。人生に不満たらたらの親に育てられる子どもの身にもなってほしい。(結婚するための道具に子どもを使ったり、子どもを搾取しようと画策している人間、子どもを自分の代わりにして、夢や野心を押し付けるのも、もってのほかだ。)
自分の子どもに会えなかったのはとても残念なことではあるのだが、出迎える準備ができなかったのだ。なるようになるさ、とは思えない。命は重たいものだ。
幸福な子ども時代を送った人たちは、子どもを作れなかったりすることに絶望するのかもしれない。しかし、後世に残すべき塩基配列なんてものは存在しない。
口に出したことはないが、子どもに墓守をさせるとか、介護をさせるとか、そういったことを出産理由として話す人をわたしは心の底から軽蔑している。自分のライフステージを変えるためとか、人生をリセットするとか、自分の生きる理由とか、自分のことを考えたくないから、寂しいから、とか自分のアクセサリーのように考えて、子どもを作ることも、非常に危険であるし、子どもに対しても失礼だと思う。子どもは、親の道具ではないし、気分転換の方策のひとつにされては、たまったものではない。
おそらく、わたしは子どもを持てなかったことを後悔しているのではなくて、いまだに人生を肯定できない自分が悲しいのだ。心理学者や哲学者は、不幸になることを決意して、そこにとどまろうとしているだけだと断じるに違いない。でも、人生の一切合切を肯定できるほど、わたしは強くない。わたしが感じたような悲しみや怒り、苦しみを味わってほしい人なんていない。己の弱さを克服する元気はないが、その弱さを見て見ぬふりはしたくない。
十全に幸福な人、あるいは大胆で向う見ずで、後先考えない人たちは、この先も子どもを生み続けるので、人類は問題なく続いていくのだろう。だから、わたしが心配することなど、何ひとつないのだ。
本当に幸福だったかどうかなんて誰にもわからないことだ。ただ、大なり小なり問題はあったが幸福な子ども時代だった、と言える人は、やっぱり強い人だと思う。