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人生は暇つぶし、退屈はラスボス

人生、しょせん暇つぶし。

この言葉を、半笑いで言う人もいれば、本気で言う人もいる。

わたしは、半分嘘で、半分真実だと思っている。

人生は遊びで終わらせられるほど、簡単な営みではない。日々の暮らしを分解していけば、さまざまなタスクに満ち満ちている。人生のタスクも同様に数えきれないほどある。生きていれば、思わぬ、しんどいこと、悲しいことに遭遇したりもする。

一方で、人生は暇つぶしなんだから、何をやってもいいではないか、とも思う。金儲けに人生を捧げてもいいし、恋愛を中心に生活を回してもいいし、自宅の庭のバラの栽培と手入れに時間を使ったとしても、何ら問題はない。

人間にとって、最大の敵は「暇」であり、暇な時間によってもたらされる「退屈」なのだ。それは脳科学者の池谷裕二先生と作家の中村うさぎさんとの対談本『脳はみんな病んでいる』で語られている。人間だけでなく、実験用のラットも退屈に耐えられなかったらしい。

椎名林檎も、『やっつけ仕事』という曲で、「退屈が忌ま忌ましい」とか「痛い思いをしたい」とか、実験用のラットと似たようなことを歌っている。退屈と暇は毒で、哺乳類にとっては「悪」なのだ。若者があやまちを冒すのは、好奇心からではなく、「退屈」を殺すためなのではないか。

とはいえ、多忙を極める、というのも健康には悪い。適度に時間を埋め、少し頭の使うタスクをこなして、前進したと思えることが大事なのだろう。

「退屈」は生きる力を根こそぎ奪う。だからこそ、みんなスマホによってもたらされる刺激と報酬に夢中なのだ。退屈な時間が発生しないようにする努力も、今では工夫をこらす必要もない。スマホを触っていれば、時間は過ぎていく。ただ、この「暇つぶし」で充実感を得ている人はどのぐらいいるのだろう。

わたしは、調べたくなる衝動を抑えられず、当初の目的とは違うものを延々と見続け、気付いたら一時間ぐらい経過していた、ということがよくある。

ストレスを感じていて、何も考えたくないときは、スマホを触っていても、そんなに「損」をした気分にはならない。しかし、本当は、「本を読む予定だった」「片付けをする予定だった」といったタスクの先延ばしでスマホに触ると、自己嫌悪と疲労感がやってくる。

やはり、有意義な暇つぶし、暇つぶしのクオリティをあげていくしかない。与えられた24時間をいかに楽しむか。

今のわたしは、何かに身を捧げたい、とは思えない。日々をそこそこ楽しく過ごせればいい。気分の乱高下には耐えられない。

心身の健康を維持するためには、そこそこに健康的な食事、そこそこに清潔な部屋と衣服、六時間以上の睡眠、定期的な運動だろうか。ふと退屈を感じても、退屈に耐えられないほどの苦しみに悶えることがないように。

多趣味な人、好奇心旺盛な人は、退屈を跳ね返すシールドを持っているのだと思う。あるいは、退屈を追い払う方法を知っているのだろう、と思う。

そして、退屈なときは、思考の癖が出やすい。誰かと比較をしたり、どうでもいい過去の嫌な出来事を反芻してしまったり、とろくなことにならない。

苦しいこと、つらいことに身を投じると、一見修行のように見えてよい経験だと勘違いしたりもするが、わたしは「あのつらかった日々」が本当に自分にとって必要だったとはあまり思えない。楽をすればよかったし、無理をしてまで頑張る必要はなかった。無理をすると、その対象に嫌悪感すら覚えるようになってしまう。見たくもないし、聞きたくもない。時間を投じたことを馬鹿馬鹿しく思う。それはとても不健康だ。わたしのゼロイチ思考の悪癖でもあるが、無理をしていたことは間違いない。

だから、自分にとって、そこそこ愉快な「暇つぶし」を模索していきたい。

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佐藤芽衣
チップをいただけたら、さらに頑張れそうな気がします(笑)とはいえ、読んでいただけるだけで、ありがたいです。またのご来店をお待ちしております!