#映画感想文『Mid90s ミッドナインティーズ』(2018)
ジョナ・ヒル監督の『Mid90s ミッドナインティーズ』を映画館で観てきた。宣伝ポスターにA24とあり、観ねばと思って観に行った次第である。A24という記号は、わたしにとっては保証書付きの映画を意味する。
タイトルからわかるように90年代半ばのアメリカのロサンゼルスが舞台の映画である。見始めてすぐ、90年代を懐かしむなんて早すぎるのではないか、と思ってしまった。スーパーファミコン、ストリートファイターⅡのシャツ、CDアルバムの棚を見せられ、自分の通ってきた時代が、明確に「過去」として扱われることに、少し抵抗を感じた。
CDのアルバムのデータをすべて取り込み、処分したのは、5年前ぐらいのことだろうか。断捨離の一環であった。意外と後悔はない。ただ、所有することの喜びが失われてしまったことが悲しい。好きなアーティストの新譜を発売日前に手に入れるために、新星堂やタワーレコードに走って買いに行った。物理的なものを必要としなくなったからなのか、わくわく感や何かを楽しみに待つこと自体が、めっきり減ってしまった。コミックも発売を心待ちにしていたものであるが、今は何が雑誌で連載されているのかも知らない。
あえての粗い画素で、演出される90年代が、わざとらしい、と感じてしまった。おそらく、私にとって現在と90年代は地続きで、まだ懐かしむ余裕がないのだと思う。
なぜ、ジョナ・ヒル監督が、今、この映画を撮ったのか。おそらく、今描かなければ、その手触りすら、忘れてしまうからなのかもしれない。90年代の真っ只中を生きた人たちとの共有を試みているのかもしれない。
映画の冒頭から、きつい描写で始まる。主人公のスティーヴィー(サニー・サジック)は、兄のイアン(ルーカス・ヘッジズ)に殴られる。馬乗りになって、殴る音が強調される。殴られたあと、スティーヴィーが鏡越しに見るあざが痛々しい。
ストーリーが進むにつれ、母子家庭で、この兄と弟が異父兄弟であることが示唆される。そして、暴力的な兄も、十代の葛藤を抱えていることがわかる。弟を服従させたいという欲望、弟が自分の趣味を追いかけてくる鬱陶しさ、弟の保護者的役割も担わなければならないことの面倒くささ。
兄の誕生日のシーンでは、ちぐはぐな母子関係が露呈する。母親は恥ずかしげもなく、新しい恋人候補の男の話をする。彼女は、決して悪人ではないが、大人になり切れていない。長男は、彼女の親友ではないし、母親の新しい男の話など聞きたいはずがないことぐらい分別があればわかる。長男は黙ることで、母親の話を打ち切ろうとする。母親の長男に対する依頼心が見え隠れする。母親は18歳で長男を生んでいることも明かされる。そのことは、別に幸福なことでも、何でもない、というような雰囲気が漂う。
日々、暴力を振るわれてはいるが、弟は兄に気に入られようと、CDをプレゼントする。兄はここでも反応しない。兄にとってみれば、あとから生まれた弟の父親は、母親が部屋に連れ込んでいたいた男の一人で、尊敬できるような相手ではなかったのだろう。弟自身は知らない、弟の父親を兄は知っている。生まれたときから、兄は弟を憎んでいたのかもしれない。母親と寝た男とのあいだに生まれて、母親の愛を独占する赤ん坊であった弟を愛するのは、普通の少年にはできなくても当然である。部屋でひとり筋トレに励む兄はひどく孤独に見える。
主人公のスティーヴィーが学校に行っているのかどうかは映画では描かれない。おそらく、行ってはいるが友達はいないのではないだろうか。
居心地の悪い家庭の事情があり、スティーヴィーは、外に居場所を見つけようとする。スケートボードをきっかけに、不良グループに仲間入りをする。といっても、別に犯罪者集団ではない。未成年には禁じられた煙草や酒、マリファナに手を出したり、不法侵入したりはするが、悪い奴らではない。そう、不良の多くは、仲間思いで、優しい。それは自分たちの弱さを知っているからで、ただ彼らのすることが社会という枠組みで評価されるかというとそうではない。夜な夜なパーティーをしたり、乱痴気騒ぎを起こしたり、決して褒められたことではない。
スティーヴィーは、持ち前の愛らしさと素直さ、そして頭の良さがあり、グループの成員となっていく。年上のお兄さんたちの空気を読み、彼らの地雷を踏むことはない。そして、グループのリーダー格であるレイ(ナ・ケル・スミス)に気に入られるようになる。レイのスケートボードはプロ並みで、華麗なテクニックが随所で披露される。(それもそのはず、やはりというか、ナ・ケル・スミスさんはプロのスケートボーダーなんだそうです)
スティーヴィーは、レイたちのグループに入れたことを本気で喜ぶ。その笑顔のかわいさに、ああ、そういえば、私にも、こんな子ども時代があったな、と思う。友達になれる、グループの成員になることはそれだけで、うれしいことだった。友達がいるって最高に楽しいことだった。友達になれたら、それだけで嬉しかったではないか。原始的で普遍的な感情だったことを再確認する。
13歳(ローティーン)のスティーヴィーは、ハイティーンの少年たちと行動を共にすることで、どんどん道を外していく。別に大人に反抗したいわけでも、社会に恨みがあるわけでもない。彼自身が望んだことだ。お酒に煙草にマリファナに性的な体験、どれも彼(13歳)には早すぎる。
パーティーの最中、彼は高校生の女の子に誘われる。男友達がいる手前、断れるわけがない。怯えることも許されない。初体験を済ませたのかと、少年たちがからかう。それはホモソーシャルの典型的なやりとりで、しかし、それは少年にとって、よい経験ではない。監督はそのホモソーシャルの愚かさを静かな画面で表現していたように思う。本人が望むと望まざるとかかわらず、適切でないことはある。真夜中に帰宅すると、兄がブチ切れている。スティーヴィーは兄に殴られるだけでなく、殴り返す。反撃に転じ、「友達も女もいないくせに偉そうにするな」と強烈な一言を放つ。そして、自室に戻り、スーパーファミコンのコントローラーの線で、自らのクビをしめるシーンでわかる。彼は自己嫌悪でいっぱいだったのである。
徐々に不良グループのメンバーも複雑な家庭環境に苦しんでいることが明らかになっていく。彼らは自分たちの居場所を作り、寄り添っているだけなのだ。お行儀はよくないが、致し方ないと思わせる境遇である。
破局は二度訪れる。一度目はスケートボードのミスで、スティーヴィーが落下するところである。コンクリートに叩きつけられていれば死んだはずであるがそうはならなかった。
二度目は、酔っぱらって、マリファナでイってしまっているであろうファックシット(オーラン・プレナット)が起こした交通事故である。これは、三年前に交通事故で弟を亡くしているレイが、酔っぱらいの運転する車に乗れとみんなを促したことが今でも理解できない。レイ自身も判断能力が鈍っていた、ということなのかもしれない。ただ、みんなシートベルトをしっかりしていたので、死ななかった。コンプライアンスを考えてのことなのかとも一瞬思ったが、誰も死なせない(死なない理由)ための映画上の演出だったと考えるほうが自然だと思われる。
この映画で、なぜだか泣いてしまったシーンは、レイがスティーヴィーのために、スケートボードを作ってあげるシーンである。ドリルでローラーをつけ、やすりをかけたり、削ったりして微調整の作業をする手元が映される。二人が夕陽に照らされている。お兄さんが弟分を世話してやる。誰かが自分のために何かをしてくれる。その誰かの所作や仕草は、私たちの記憶に残り続ける。スティーヴィーは、あるとき、ふと思い出すのではないか。それは、これ以上ない幸福な記憶だ。そういうものが一つでもあれば生きていけるし、そのときはことさらに意識することはないが、未来の自分を支えてくれるのだと思う。
この映画だけではないのだが、もう、人類共通の課題は、寂しさ、孤独、疎外感であることがよくわかる。ここ最近、鑑賞した作品にはどれも、それらが通底している。私たちは、いつだって孤独だし、誰もが孤独なのだ。そう思うと、ずいぶん楽になる。
スティーヴィーの母親が男を連れ込んだのは、淫乱だったからでも、性欲が強かったからでもない。孤独だったからだ。ただ、母親にとっての恋愛、貴重な逢瀬も、それを聞かされていた長男にとっては性的虐待に過ぎない。兄の暴力も看過できないが、根底には、荒んだ心理状態、孤独であること無関係ではない。
もちろん、スティーヴィーが、レイたちとつるむようになったのも、孤独を抱えていたからである。本当に孤独は不治の病である。死ぬまで続くのだろう。だから、私たちは、何かに夢中になって、それを忘れようとする。孤独を苛むよりは、健全な対処法でもあると思う。そのために、文学や音楽、映画があるのだろうし。
そして、VOGUEのインタビューを読んでいたら、びっくり!
ビーニー・フェルドスタインは、ジョナ・ヒル監督より10歳年下だそうだ。確かによく見ると似ている!
『mid90s』は、白人、黒人、ヒスパニックと人種はさまざまだけれど、「オレたち、友達だよ」ということの明るさと楽しさが根底にはある。それが救いであった。
次のA24の日本公開作品『フェアウェル』も、楽しみである。もし、お時間がよろしければ、同じくA24製作の『WAVES』のレビューもぜひ。
同じく90年代を描いていた韓国映画の『はちどり』でも感じたことだが、子どもは何も選べない。その不自由さは、やはり苦しい、と思う。
【追記】
2022年5月7日現在、この記事のアクセスが増えているので、なぜかと思ったら、動画配信サービスの影響のようだ。
どのタイミングでこの記事が読まれているのかは、わからない。鑑賞後でも、鑑賞前でも、時間をかけて書いた記事を読んでもらえるのはありがたい。