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映画『フェアウェル』(2019)の感想

ルル・ワン監督・脚本の『フェアウェル』を映画館で観てきた。A24製作である。

主人公のビリー(オークワフィナ)は、アメリカのニューヨーク在住の30歳の女性で、就職活動中である。大学院まで進学し(おそらく博士号は取得済みで)、学芸員を目指している。ただ、不採用通知が届き、彼女の人生がそれほどうまくいっていないことが冒頭で明かされる。

ビリーは6歳で、中国の長春から、アメリカのニューヨークに移住しており、中国語は子どものレベルでしか話せない。家庭でしか使っていなければ、言語というのはおのずとそうなってしまう。ただ、中国の親戚と世間話をするぐらいであれば、それで事足りるという現実もある。

なので、この映画における言語は、中国語が60%、英語が40%ぐらいだろうか。ビリーは大事な話になると、英語を使う。彼女にとっての母語は英語なのである。(ただ、彼女が中国語では言えないことを英語で言うたびに「本当に中国の人って英語がわからないの? みんなにバレバレなんじゃないの?」と思ってしまった)

祖母のナイナイが、肺がんで余命3カ月であることにビリーはショックを受ける。また、その事実を明かさないと決める親戚に対して、苛立ちを募らせていくのが物語の主軸である。いとこのハオハオが交際3カ月で結婚することになり、それを口実にして、ナイナイに会うため、親戚一同は、中国に戻る。ナイナイの長男(ハオハオの父親)は日本へ、次男(ビリーの父親)はアメリカへ移住していたことが、ここでわかる。この家族たちは、しばらく会っていなかったし、別々の土地で暮らしているのだ。90年代前半に移住した人々だと思われる。

祖母のナイナイは、ある意味、この一族の統合の象徴で、彼女がいなくなったら、ゆるい糸も切れてしまうのかもしれない、という危うさがある。血縁を重視する中国人にとっては、由々しき事態であるのかもしれない。

それが、私がこの映画に入り込めなかった理由なのだろう。私と親族のつながりは薄い。会えば世間話はするだろうが、天気と芸能ニュースでお茶を濁すだろう。いまさら、盆や正月に会いたいとも思わない。そういう意味では根無し草状態で、それは私に限ったことではないと思う。親戚づきあいをすることで得られるセーフティーネット(面倒さと苦痛付き)と一人の気楽さゆえの孤独を天秤にかけたとき、残念ながら、私は後者を選んでしまう。

(ただ、そういった人々が多いことで、日本はこの上なく暮らしにくい国になっていることも事実である。日本の自殺率の高さは、どう考えても、自己責任と相互不干渉主義による結果である)

ビリーは祖母のナイナイに余命宣告をして、彼女のやりたいことをやらせてやるべきだと考えている。親戚はそれに反対する。日本に移住している長男は、「私は中国人だ」とわざわざ言う。このシーンで、ビリーの家族と同様に、彼らも、日本国籍を取得しているのかもしれないと思わせる。

長男(ビリーにとってはおじ)は「西洋人にとっての命は個人のものだ。しかし、東洋人にとっては、一人の命は家族や社会の一部だ」とビリーに説教をする。ここに一番の違和感を覚えた。日本に移住しているのなら、現在の日本の医療機関で、本人に余命を告げないことはあり得ない。自己決定権は尊重されている。もちろん、中国で暮らすナイナイに対しては、中国本土の価値観で対応すべきだということなのかもしれない。ただ、脚本上、みんながビリーに反対している、というわかりやすい構図にしたかっただけなのでは、という疑いもぬぐえない。(まあ、外国に移住した人々が、愛国主義に走ることも往々にしてあるので、何とも言えない)

これが演出ならすごいなというシーンは、長男が結婚式でスピーチをする際、「えー」が何度か挟まっていた。普段は日本語で暮らしているのだと思わせる。個人の癖である可能性も否定はできないが、彼が日本語を使うシーンはないので、ここが印象的でもあった。

一族がばらばらに、さまざまな土地で暮らす中国人は、世界中におり、中華圏の人々にとっては馴染みやすいテーマなのだろう。

中国本土には、経済成長の勢いがあり、それゆえの傲慢さを指摘するシーンもある。親戚がビリーに「中国に戻ってきたら、すぐに成功できる。お金持ちになれる」とうそぶく。それに対してビリーは「大切なのはお金じゃない」と淡々と述べる。そのやりとりには隔世の感がある。時代の流れの残酷さを感じる。拝金主義的であったはずの米国では、経済的な成功を目標に生きることがすでに難しいのである。

(日本は失われっぱなしの30年で、現時点で先進国のなかでも最低賃金は低く、経済的敗北感には慣れっこなので、中国人の拝金主義は遠めに見てそれで終わりである)

中国本土には、まだ経済成長の勢いがある。確かに、彼らが移住した90年代前半の中国経済は弱かった。まだ、日米のほうがマシだった時代である。

その親戚は子どもをアメリカに留学させようとしており、ビリーの母親は「そんなに中国がいいなら、なぜアメリカに留学させるの。中国のほうがチャンスもあるでしょう」と攻撃をする。ここで不穏な空気が流れる。中国、アメリカ、日本で暮らす人がゆえに、価値観のずれ、考え方が異なってしまう、という小さな文明の衝突が描かれる。(そういえば、映画の序盤では、ホテルで働く素朴な中国人のアメリカに対する羨望の描写もある)

ビリーの家族のアメリカでの暮らしは、アメリカの中産階級を思わせるもので、決して貧しくはない。ただ、金持ち、という感じではない。ビリー自身は無職で、アパートの家賃を払えていない。図らずも、親に頼ってしまっている、というのが実際のところである。

ただ、この映画を見る上で留意すべきは、アメリカ育ちの中国系監督によって描かれたものである、ということである。アメリカから見た中国、家族主義(血縁主義)で、余命宣告もしない、というのは単なるステレオタイプではないか、という気もするのだ。(中国の都市沿岸部と内陸部の経済格差は大きく、一概に言えない、というのが現実だとは思う)

この映画の編集は悪くない。テンポもいい。

どうしようもなく、受け入れがたかったのは、音楽のダサさである。BGMがどうにもこうにも垢抜けない。わざとダサくしているのかもしれないが、普通にダサい。音楽に詳しいわけではないのだが、あまりにダサくて、映画を駄目にしているように思われた。

あと、些末なことだが、オープニングとエンドロールの漢字と英語の混在表記もダサかった。文化のミックスを表現したかったのかもしれないが、漢字のかっこいい見せ方、ハングルのかっこいい見せ方、英語のかっこいい見せ方は、全然違うのである。併記すると、バランスが悪くて、見栄えが悪い。このダサさも何とかしてほしかった。

A24に対する期待値が高くなりすぎているのかもしれない。ただ、私は無骨なものより、より洗練されたものが見たいのだ。

注釈となるが、私以外の周りの観客は、涙を流して、感動していたようなので、映画の何が刺さるかは人によって違う。ある種の家族や親せきに対する考えた方のリトマス試験紙になると思う。あと、中国語と英語がわかる人にはより面白いと思う。

そして、この映画のオチから考えると、余命宣告をしない、という中国本土のやり方が正しい、ということになるのかもしれない。



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佐藤芽衣
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