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”F"について:『あかね噺』は「ゲーミフィケーション」的な「快楽的なダルさ」を超えられるか?



※本記事は『あかね噺』の感想記事です。最新コミックスまで読了したうえでの感想です。週刊少年ジャンプ本誌の最新内容は考慮していません。


第1章: 『あかね噺』が描く物語継承の可能性





『あかね噺』は、落語家の父を持つ主人公・桜咲朱音が、破門された父の名誉を取り戻すため落語家を目指す成長物語だ。「トーナメントバトル」を勝ち抜くマンガの構造は、一見すると週刊少年ジャンプらしい王道的な少年マンガの構造を持ちながら、その中身は現代のマンガ表現や物語消費のあり方に一石を投じる野心的な作品だと、僕は考える。

『あかね噺』は、ゲーミフィケーション、物語継承、そしてジェンダーという3つの重要な要素を内包している。


物語は、朱音が落語の技術を習得し、様々な演目をマスターしていく過程を丁寧に描いている。ここで注目すべきは、この習得過程がある種の「ゲーミフィケーション」的要素を含んでいる点である。


ゲーミフィケーションとは、普段の生活や勉強などの活動に「ゲームの要素」を取り入れて、楽しく夢中になれるようにする方法だ。


朱音が芸を覚えて、スキルアップしていく過程は、まるでゲームのレベルアップのように、テンポよく、可視化された形で描かれている。まるでスマートフォンのアプリゲームを軽くクリアして爽快感を得られるようなプログラムが、『あかね噺』には組みこまれている。


さらに、作品内で重要な位置を占める「トーナメントバトル」は、まさにゲーム的な要素を強く感じさせる。落語家たちが技を競い合い、順位を上げていく様子は、ゲームにおけるバトルやランキングシステムを彷彿とさせる。『ドラゴンボール』の天下一武道会のようなこの構造は、現代の若い読者にとって親しみやすく、物語への没入を促す効果を持っている。


しかし、『あかね噺』の真価は、このゲーミフィケーション的要素を表層的に取り入れながら、その奥に潜むのはもっと深い読者への問いかけだ。


朱音が落語を学び、演じていく過程は、単なる技術の習得ではない。それは、他者の物語をいかに理解し、自分の言葉で伝えていくかという、より本質的な問題に向き合う過程でもあるのだ。


落語という芸能は、長い歴史の中で培われてきた物語の宝庫である。それぞれの噺には、その時代を生きた人々の喜怒哀楽が凝縮されている。朱音は、これらの物語を学び、演じることを通じて、自分とは異なる時代、異なる境遇の人々の心情を理解し、それを自分の芸として現代の観客に伝えていく。


作中のテーマである「落語」は「フィクション」そのものだ。
フィクションの枠組みで語られている、「映画」「ドラマ」「アニメ」といった映像作品を観客が鑑賞する構図は、「落語」を伝える演者と、その演目を楽しむ観客の構図と似ている。


この過程で、朱音は単に父の芸を継承するだけでなく、物語(フィクション)そのものの本質的な価値と向き合うことになる。それは、現代社会において失われつつある「物語を純粋に受け止め、伝える」という行為の重要性を問い直す試みでもある。


『あかね噺』が提示するこの問いかけは、現代のマンガ表現や物語消費のあり方に一石を投じるものだ。


スマートフォンやSNSの普及により、僕たちは膨大な情報や物語の断片に日々さらされている。しかし、それらを真に理解し、自分の言葉で他者に伝えることの難しさも増している。この作品は、そんな現代社会における物語の在り方を、落語という伝統芸能を通して問い直している。


さらに『あかね噺』は、ジェンダーの問題にも鋭い視点を投げかけている。その象徴が、朱音の父「阿良川志ん太」の破門である。
阿良川志ん太が真打昇進試験に失敗し、破門されたことは必然である。

なぜなら彼が真打になる理由には、「男性性の獲得」や「父親の威信回復」といった物語の枠組みと重ねてしまっているからだ。


そして『あかね噺』は、従来の「男性性の獲得」や「父親の威信回復」といった物語の枠組みを巧みに回避している。


朱音の目的は「父を認めさせる」ことではなく、「父親の『芸』を認めさせる」ことにある。


それは、落語という芸能の本質的な価値を理解し、それを現代に伝えていくことなのだ。


この設定は、物語継承の問題を、ジェンダーの枠を超えた普遍的なテーマとして提示することを可能にしている。


朱音が直面する課題は、男性性や女性性といった固定的な概念ではなく、いかに他者の物語を理解し、観客に純粋な形で落語というフィクションを伝えていくかという、より本質的な問題だ。


『あかね噺』は、ゲーミフィケーション的要素を表層的な入り口としながら、物語を純粋に受容し伝えることの本質的な価値を問い直している。それは、現代社会における物語の在り方を問う重要な試みなのである。

第2章:  物語消費の両極―『怪獣8号』と『あかね噺』と「ゲーミフィケーション」


『あかね噺』における「ゲーミフィケーション」的要素をより明確に理解するために、同時代の人気作品である『怪獣8号』との比較分析を試みたい。


『怪獣8号』と『あかね噺』。この二作品は、一見すると全く異なるジャンルに属しているように見える。しかし、現代マンガにおける物語消費のあり方という観点から見ると、興味深い共通項が見いだせる。


『怪獣8号』は、怪獣が頻繁に出現する日本を舞台に、32歳の主人公・日比野カフカが怪獣化する能力を得て戦いに身を投じる物語である。この作品は、従来の怪獣作品とは一線を画す特徴を持っている。

それは、怪獣という存在から、これまでの作品が持っていた象徴的な意味を徹底的に排除している点である。


かつての怪獣作品、例えば『ゴジラ』シリーズなどでは、怪獣は原子力の脅威や戦争の記憶、あるいは人類の傲慢さへの警鐘といった重層的な意味を持っていた。


しかし『怪獣8号』における怪獣は、そうした意味を持たない。それはむしろ、ゲーム『モンスターハンター』のモンスターのように、プレイヤーが「狩猟」する対象として純化されている。

怪獣との戦闘は、キャラクターの内面的な葛藤や社会的な問題との結びつきを持たず、むしろゲーム的な爽快感を提供する装置として機能しているのである。


この特徴は、キャラクターの描写にも顕著に表れている。主人公のカフカは怪獣化という特殊な能力を得るが、その能力の獲得や制御に関する内面的な葛藤は驚くほど希薄である。彼は、まるでゲームのアバターのように、与えられた能力を即座に使いこなし、戦闘を繰り広げていく。

最も象徴的な設定は、識別怪獣兵器(ナンバーズ)だ。これは怪獣をベースに作られた兵器で、使用装着者と「共闘」して怪獣に立ち向かう。 『怪獣8号』で登場する「怪獣」は、これまでの怪獣特撮作品に存在した、「戦争」「英霊」「原子爆弾」といった、社会的側面を持つ象徴性が全て剥ぎ取られ、ゲームプレイヤーが颯爽と敵を倒し、倒した敵を自分の武器としてカスタマイズするゲーミフィケーション的な爽快感をもたらす舞台装置として機能している。 このような描写は、現代のゲーム的な物語消費に最適化された形態だと言える。


読者は、キャラクターの複雑な心理や社会的な文脈という「ノイズ」を受容することなく、戦闘シーンや能力の成長という分かりやすい要素を「消費」することができる。


一方、『あかね噺』も確かにゲーミフィケーション的要素を持っているが、その様相は大きく異なる。朱音の成長過程は、確かにゲーム的な段階的成長として描かれるものの、それは表層的な構造に過ぎない。その奥には、落語という芸能の本質を理解し、他者の物語=フィクションを自分の言葉で伝えるという深い課題が常に存在している。


例えば、朱音が新しい演目を習得する過程は、単なる技術の獲得ではない。それぞれの噺に込められた人間ドラマを理解し、自分なりの解釈を加えながらも、物語の本質を損なわないよう演じることが求められる。これは、『怪獣8号』における能力獲得の即時性や単純性とは対極的な性質を持っている。


また、『あかね噺』の設定に一貫して登場する「トーナメントバトル」の設定も、表面的にはゲーム的な競争の場として機能しているように見える。しかし、そこで問われているのは単なる技術の優劣ではない。それは、いかに物語の本質を理解し、観客に伝えることができるかという、より本質的な課題なのである。


この比較から見えてくるのは、現代マンガにおける二つの方向性である。

『怪獣8号』は、ゲーミフィケーション的要素を全面に押し出し、現代的な物語消費の形態に最適化された作品として成功を収めている。

一方『あかね噺』は、そうした要素を表層的に取り入れながらも、その先にある本質的な価値を問い直す試みとして位置づけることができる。


この違いは、現代マンガが直面している重大な課題を浮き彫りにしている。即時的な満足を求める読者の欲求に応えながら、いかにして物語の深い理解と継承を可能にするか。『あかね噺』はその可能性の一つを示唆しているのである。


第3章: 『スマホ時代の哲学』が提示する「快楽的なダルさ」の時代における物語体験


『あかね噺』と『怪獣8号』に共通する「ゲーミフィケーション」的な要素を深く理解するために、『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』という書籍が示唆する「快楽的なダルさ」という概念に注目したい。



『スマホ時代の哲学』という書籍を読み進めるうちに、現代マンガの特徴と深く結びつく概念に出会った。それが「快楽的なダルさ」である。この概念は、スマートフォンによって常時接続された現代社会における人々の心理状態を鋭く捉えている。


常時接続の世界において、私たちはスマホから得られるわかりやすい刺激によって、自らを取り巻く不安や退屈、寂しさを埋めようとしている。


この行動パターンは、まさに現代のマンガ消費と重なる部分が多い。特に、『怪獣8号』のようなゲーミフィケーション要素の強い作品は、この「快楽的なダルさ」を提供する典型例と言えるだろう。


そして『スマホ時代の哲学』では、現代人がスマートフォンが可能にするマルチタスクによって、インスタントで断片的な刺激を受け続けるプロセスが、現代人に癒やしを与えることが指摘されている。これは、ゲームのレベルアップのように、テンポよく主人公たちが成長することに、短期的な満足感を得ている一方、作品に対するより深い理解や思索を放棄してしまう傾向がある。


さらに、著者は「空いた時間をまた別のマルチタスクで埋めていないか?」と問いかけている。

これは、マンガを読む際にも当てはまる。一つの作品をじっくりと味わうのではなく、複数のマンガアプリを駆使して無料エピソードを「スマートフォン」を使用して次から次へと読み、新しい作品を消費し続ける読者の姿と重なる。


しかし、『スマホ時代の哲学』は単にこの状況を批判するだけではない。著者は「モヤモヤ」を抱えておく能力、すなわちネガティヴ・ケイパビリティの重要性を説いている。これは、マンガ作品においても重要な示唆を与えるものだ。即時的な満足や解決を求めるのではなく、物語の中に潜む「モヤモヤ」とじっくりと向き合うことで、より深い読書体験が得られるのではないだろうか。


『スマホ時代の哲学』が提示する「孤独を楽しむ」という概念は、マンガ読書の新たな可能性を示唆している。常にSNSでつながり、他者の反応を求めるのではなく、一人で作品と向き合い、自分なりの解釈や感想を深めていく。そんな読書体験が、現代のマンガ文化に新たな深みをもたらす可能性がある。


『スマホ時代の哲学』が投げかける問い―情報や物語とどう向き合うか―は、現代のマンガ文化における本質的な課題でもある。「快楽的なダルさ」に身を委ねるのか、それとも「孤独」と向き合い作品の深みを探るのか。この選択が、現代のマンガ文化の行方を左右するのかもしれない。


第4章:  阿良川志ん太が破門された「真の理由」


『あかね噺』が持つ革新性は、第一巻における阿良川志ん太の破門という出来事に集約される。この破門は、従来の「男性性の獲得」という物語の否定であり、新しい物語継承の可能性を示唆する重要な転換点である。


僕が注目したいのは、阿良川志ん太が真打昇進試験に挑んだ動機である。

彼は「妻のヒモになりたくない」「子供に良いところを見せたい」という典型的な男性性の回復を目指していた。しかし、その試験で彼は破門される。この展開は、現代社会において、もはや従来型の男性性獲得の物語が通用しないことを暗示している。
落語=フィクションを観客に伝えるために、阿良川志ん太は「父性の回復」という個人的な動機を重ね合わせてしまった。それは真打の芸では決していない。だから、阿良川志ん太が破門されたのは、男性性の回復が無力化された現代社会においては必然なのだ。



さらに興味深いのは、朱音が父の名誉回復を目指す過程で、決して「父親を認めさせる」ということを目的としていない点である。彼女が継承しようとしているのは、あくまでも父の「芸」であり、それは男性性や父権とは切り離された純粋な技芸としての落語なのだ。


落語という芸能形態は、現代の陰謀論と重なる危うさを持っている。どちらも「語り」を通じて伝播され、聞き手の解釈によって意味が変容する可能性を持つ。しかし、『あかね噺』は、この類似性を逆手に取り、物語の純粋な継承という可能性を提示している。
落語は確かにフィクションである。しかし、それは陰謀論のように現実を歪曲するものではない。むしろ、かつての時代を生きた人々の喜怒哀楽や、普遍的な人間ドラマを、フィクションという形式を通じて伝える装置として機能している。朱音が落語を学ぶ過程は、この物語の本質を理解し、それを歪めることなく伝えようとする試みなのだ。


特筆すべきは、作品が「観客」という存在を重視している点である。落語における観客は、単なる受動的な聴衆ではない。

物語の解釈者であり、共同体験者でもある。これを現代のマンガに置き換えれば、読者という存在の重要性が浮かび上がってくる。『あかね噺』は、読者に対して、物語をより深く理解し、解釈する主体としての役割を求めているのだ。


作品における落語の稽古や演目の習得過程は、確かにゲーミフィケーション的な要素を含んでいる。しかし、それは表層的な構造に過ぎない。その奥には、物語の本質を理解し、それを純粋に伝えるという深い課題が存在している。朱音は、単に技術を習得するのではなく、各演目に込められた人間ドラマを理解し、それを現代の観客に伝えることを求められているのだ。


このような『あかね噺』の試みは、現代マンガにおける新しい可能性を示唆している。それは、ゲーミフィケーション的な要素を完全に否定するのではなく、それを入り口として活用しながら、より深い物語理解と虚構=フィクションを継承していくことを目指す道筋である。


『あかね噺』が示唆するのは、物語を純粋に受け止め、伝えることの重要性である。情報が氾濫する現代社会において、我々は自分に都合の良い解釈や表層的な理解に留まるのではなく、物語の本質と真摯に向き合う必要があるのだ。


第5章: 『あかね噺』が目指す地平


『あかね噺』が目指す最終的な到達点を考察するにあたり、僕は13巻における阿良川まいけるの真打昇進試験に注目したい。この出来事は、作品が提示する物語継承の本質を象徴的に表している。


阿良川まいけるは、かつての兄弟子である志ん太の芸を認めさせたいという思いで真打昇進試験に臨む。

注目すべきは、ここに「父親を認めさせたい」という要素が完全に排除されている点だ。阿良川まいけるの目的は、あくまでも志ん太の「芸」、すなわち彼が広げる物語の展開やフィクションの伝え方を正しく継承することにある。
しかし、試験の結果、阿良川まいけるは真打に昇進しながらも、阿良川一生から「足りない」という評価を受ける。この「足りない」という言葉には深い意味が込められている。それは、単に技術的な未熟さを指すのではない。むしろ、物語継承における本質的な何かが欠けているという指摘なのだ。


この展開は、『あかね噺』が最終的に目指す地点を示唆している。それは、男性性の獲得でも、単なる父親の芸の継承でもない。さらには、技術的に完璧な落語の再現でさえない。作品が追求しているのは、物語そのものの本質を理解し、それを純粋に他者に伝える能力なのである。


ここで重要なのは、「純粋に」という点だ。これは、自分の解釈や都合を押し付けずに、落語=フィクションの本質を損なうことなく伝えるという意味を含んでいる。しかし同時に、単なる機械的な再現ではなく、語り手自身の理解と共感を通じて物語を生き生きと伝えることも求められているのだ。


この「純粋な物語継承」という課題は、現代社会において極めて重要な意味を持つ。我々は日々、SNSやメディアを通じて膨大な情報や物語に触れている。しかし、それらは往々にして自分に都合の良い形でフィルタリングされ、純粋な物語体験を妨げている。


『あかね噺』は、この現代的な課題に対する一つの解答を提示しようとしているのだ。


作品が最終的に描こうとしているのは、おそらく次のような姿だろう。主人公の朱音が、落語という形式を通じて、かつての時代の物語を深く理解し、それを現代の観客に純粋に伝える。その過程で、物語は単なる過去の遺物ではなく、現代に生きる人々の心に響く普遍的な何かとして蘇る。そして、その体験を通じて観客(すなわち読者)もまた、物語を受け止め、解釈し、さらに他者に伝えていく主体となる。


このビジョンは、単なるマンガの枠を超えた、現代社会における物語の在り方そのものへの問いかけである。それは、ゲーミフィケーションや「快楽的なダルさ」といった現代的な要素を完全に否定するのではなく、それらを入り口として活用しながら、より深い物語理解と継承を目指す道筋を示している。


『あかね噺』が最終的に到達しようとしているのは、このような新しい物語継承の形なのだ。それは、伝統と現代、虚構と現実、語り手と聞き手の境界を超えて、物語の本質的な価値を再発見し、継承していく試みである。



終わりに


『あかね噺』の分析を通じて、僕は現代マンガが直面している本質的な課題と、その可能性について考えてきた。この作品が投げかける問いは、単にマンガ表現の問題に留まらず、現代社会における物語の在り方全体に関わるものである。


現代のマンガ表現は、確かにゲーミフィケーションという強力な武器を手に入れた。それは読者を物語に没入させ、分かりやすい達成感や満足感を提供する効果的な手段となっている。『怪獣8号』に代表されるような作品は、この要素を最大限に活用することで大きな成功を収めている。


しかし、その一方で「快楽的なダルさ」という現代的な病理も生まれている。読者は次々と新しい刺激を求め、より深い物語理解や解釈を放棄してしまう。これは、スマートフォンやSNSによって加速された、現代特有の物語消費のパターンと言えるだろう。


このような状況において、『あかね噺』は新しい可能性を示唆している。それは、ゲーミフィケーション的要素を完全に否定するのではなく、むしろそれを入り口として活用しながら、より深い物語理解と継承を目指す道筋である。


特に重要なのは、物語を「純粋に」受け止め、伝えるという視点だ。これは、自分の都合や解釈を押し付けることなく、物語の本質を理解し、それを他者に伝えていく試みである。落語という伝統芸能を題材としながら、作品は現代における物語継承の可能性を探っているのだ。


この試みは、現代マンガ全体に対して重要な示唆を含んでいる。それは、娯楽性や即時的な満足感と、より深い物語理解や継承が、必ずしも相反するものではないということだ。むしろ、両者を適切に組み合わせることで、新しい物語表現の可能性が開かれるのではないだろうか。


最後に、読者である我々自身の役割についても考えてみたい。物語を純粋に受け止め、理解し、さらに他者に伝えていく。その過程において、我々もまた物語の継承者としての役割を担っているのだ。


『あかね噺』は、そのような読者の主体的な参加を促す作品として、伝統と革新、娯楽性と芸術性、表層と深層を架橋する、新しいマンガ表現の可能性なのである。




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