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スジャータ
父の性格を一言で表すとしたら、「無邪気」が似合う。
家のことには口出しせず、いつもにこにこしながら家族の会話を聞いている父。口数が少ない方ではあったが、時々秀逸な冗談を言って家族を笑わせたり、どこから仕入れてきたかわからない知識を披露して驚かせたりした。
自分の好きなものを目の前にすると、子供のように踊る。
父の一番の趣味は競馬である。有料の競馬のテレビチャンネルを登録しており、休日の午後はテレビの前で新聞を広げながら「研究」をしていた。研究の成果が出ていたかは怪しい。
煙草を吸うためキッチンとテレビの前をひたすら往復する。父が歩くと廊下がのしのしと機嫌の良い音を立てた。
姉2人が母と話し込んでしまうので、休日に幼いわたしの相手をしてくれるのは専ら父であった。
父は急にいろんなところへわたしを連れて行く。金曜日になると「明日、一緒に映画に行くよ。」だの「明日はプールに行くから早く起きるんだよ。」だの当たり前のようにわたしに言ってきた。
映画館では父はわたしにとポップコーンを買ってくれ、上映前にそのほとんどを自分の胃袋の中におさめた。父は食いしん坊で、毎年会社の健康診断でメタボと言われてもけろっとしている。味の濃いポップコーンも、遠慮せず食べた。
遊びに行くのはたいてい近所で、昼過ぎには必ず帰宅する。なぜかというと、競馬の重賞レース中継に余裕を持って臨みたいからだ。思えば、当時の父は50歳を超えていたが今のわたしよりずっとタフな休日を過ごしていたと思う。
毎年夏になると、家族で旅行に行った。父の会社の保養施設が千葉の海沿いにあり、海で日が暮れるまで遊ぶ。
千葉までは東京湾フェリー、金谷丸に乗って行く。片道40分の海の上から、旅は始まる。
豪華客船(と、幼い頃は本気で思っていた)の窓側の席に座って姉たちと絵を描いたりクイズを出しあったりしてはしゃぐ。
ふと父の姿が見えなくなったかと思うと、売店からひょっこり現れてソフトクリームを片手にやってくる。いつの間に買ったんだろう。
母に「もう、またそんなもの買って」と怒られても父は嬉しそうだった。そういう人だった。
そんな夏がいくつか続いた。
2014年11月14日、父は余命宣告をされた。
脳に大きな腫瘍がある。綺麗に取り除いても再発の可能性は大いにある。すでに病状は最悪だった。
まずは2年、頑張って、そこから一歩ずつ生活していきましょう。有名な脳外科の先生はそう言った。
父の腫瘍は見事に取れた。大人の握りこぶしほどもあったらしい。
それから父は治療をしながら家でゆっくりと過ごした。
きょとんと、こちらの言うことがあまり理解できないような顔をするようになった。以前よりさらに口数が減った。怒ることはもちろん、高らかに笑うこともなくなった。あんなに大好きだった競馬も観なくなった。数ヶ月でなんだか聞き分けの良い赤ちゃんみたいになっちゃったな、と思った。
彼の周りの空気はまろやかでゆっくりゆっくり流れていた。力の入っていない歩き方と目線とが、わたしをじゅうぶん寂しい気持ちにさせた。
手術の翌年、家族5人で北海道を旅した。父を想って、母は病人にとっても快適なホテルや観光地から遠く離れた静かな国立公園を提案し、ゆっくりゆっくり旅をした。
途中何気なく寄った公園があった。気がつくと、父の姿がない。ひやりとする。病気の父は頭の中がしっかりしていないので、入院中もふらりと脱走してスーパーに行き看護師さんに怒られていた。でもここは東京の病院ではない。北海道のだだっ広い田舎で迷子になったら、どうなってしまうだろう。
あたりを見回すと、少し向こうの、公園に併設している建物から父がよたよたと出てくるところであった。なにやってんの、ふらふらしないでよと言おうとして、やめた。父はにこにこしていた。
右手には、買ったばかりのソフトクリームがあった。
その時初めて、もう何年も家族旅行をしていなかったことを思い出した。
これが5人で行った最後の旅行だった。
先生の言う通り父の腫瘍はきちんと再発し、発病からちょうど2年を過ぎた頃、父は息をすって、はいて、亡くなった。からりと晴れた日であった。