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戯言#2 信仰のかたち

 最近、昔やってたソシャゲを久々に開いたらデータが消えてました。めちゃくちゃやってたのに。しかも当時排出割合0.0005%だった最高レアリティのカードがバンバン流通しててインフレを感じました。それにまたハマって小説かけてません。人生のターニングポイントは絶対今ココなのに。

 ヘルマンヘッセの『デミアン』を読了しました。作中にて、教会でピアノを弾くピストーリウスに対し、主人公であるシンクレールは「音楽はいたって道徳的でないから、ぼくにとって非常に好ましいのだと思うのです」といいます。
 シンクレールはキリスト教に疑問を抱き、アブラクサス(アプラクサス)という神を信仰するようになります。日本人にとって宗教というのは珍しいもので、『デミアン』の本命は恐らく第一次世界大戦渦中における少年のアイデンティティ形成などなのでしょうが、私の目には、宗教、ひいては信仰が要素として当たり前にある人間の葛藤が映りました。
 ピストーリウスがひいていたのはバッハやレーガーなどのクラシックで、歌詞はありません。道徳的でないことを好むということから、やはり彼がそれに対して苦闘していたことは明らかです。とはいってもバッハしかりレーガーしかり多くの宗教音楽を残しています。つまりそれはシンクレール自身が、宗教音楽として認識しなかったがために好ましかったのです。
 ※宗教音楽については知識足りなすぎるのでそういう点でのお怒りは甘んじて受けるつもりであります

 それより以前にキリスト教の受難の物語やバッハの宗教音楽に触れ、ひどく感動した描写があることや、実際ピストーリウスの音楽を聴いて敬虔な信仰を感じ取っていることから、それは知識の欠落ではなく、彼自身の選択であるのは明らかです。

 シンクレールが道徳的でない音楽を好んだのは、その音楽を通してピストーリウスの人間性を感じ取ったからだどういう面もあると思うんですよね。もちろん道徳的でない、が宗教的な側面を完全に排したという意味ではありませんから。
 例えば旋律に己の信仰を投じて、何かを感じる。これは現代の曲にもいえます。

 ただ決定的な違いというのは、聴く側個々のいわゆる「信仰」の内容の厚さです。曖昧な歌詞であれば、その意思を汲み取れたがどうかにかかわらず、欠けた理解不能の部分を己で補完していると思うのです。
 いうならば曖昧な歌詞というのはお金です。そしてストレートな歌詞および曲はモノそのものであると言えます。モノであれば、聞く側が補わなければならない部分は少ないですよね。クマのぬいぐるみはクマのぬいぐるみでしかありません。

 つまり、お金を用いて自分の価値観に基づいた一番好ましいものを買うのです。それは個々の背景、いわゆる信仰と括ったモノから生み出されるモノですよね。
 シンクレールは賢い少年です。それゆえそこから引き出されるモノはおそらく崇高なモノだったでしょう。ではそうでない人間ではどうか?

 しょうもない背景の人間が生み出すモノなどたかが知れています。ただこれは誰かを指しているのではなく、そうなりたくないという戒めのようなものです。それぞれの人間の人生を、その外の人間がどうやって評価できるというのでしょうか。
 その音楽を聴いて、心の中に絵を描くのだとすれば、使われる色は多い方がいいし、完成する作品は素敵な方がいい。なんかそんな感じです。
 ちゃんと論じるには知識も経験も足りないのでこの項目で書きました。なんか着地点よくわかんないけどいいよね。

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