私、ラブロマンスが好きなの。

 別れは自分から切り出した。
 特に大きな喧嘩もないまま3年付き合った彼女は、裏では他の男と浮気をするような薄情な女だった。
 それが発覚した時、不思議と悲しみや怒りの類の感情はなく、どこか滑稽に感じている自分に驚いた。
 
 愛していなかったわけではない。まめに連絡をとり、彼女との時間を多く設け、記念日にはプレゼントを贈った。休みの日には人気のデートスポットへ出かけたり、安いながらも清潔にしている私の部屋で、サスペンス映画を見たりした。いわゆる一般的な男女だった。

 ある晴天の夜、駅からの家路の途中の公園で、白い猫を見かけた。別に猫が好きだという訳でもないが、その時はなんとなく、その猫に興味が湧いた。
 近くのコンビニで缶詰を買って、公園のベンチで座って待ってみたものの、その日、猫は再び姿を現すことは無かった。
 
 別の日の夜、道を歩いている途中、あの時の缶詰がそのまま鞄に入っているのを思い出し、また公園に立ち寄った。
 雲ひとつない空には月がよく映えた。2本目のタバコを吸い終わる頃に、隣のベンチ下に白い塊が見えた。
 あの猫だった。
 警戒する素振りも見せず、その猫は差し出した手に体を擦り付けてきた。

 缶詰に夢中のその背中は絹のように滑らかで、どこかの家で飼われているように思われた。
 その缶詰を食べ終わらないうちに、満足そうに前足を舐めてから、恩人である私を横目に茂みへと消えていった。
 薄情なやつだ。そう思った。その日の夜は夢も見なかった。

 そんなことがあってから、その公園に通うのが日課となっていた。
 元から警戒心があった訳では無いその猫は、私に懐き、ついには自分から近寄ってくるようになった。
 抱き上げると、ちいさくにゃあと鳴きはするものの、私にされるがままで、膝の上で丸くなった。
 鼻を近づけると、街の匂いがした。
 爪は短く切りそろえられており、1度引っかかれたことがあったが、目立った傷にもならなかった。
 真っ白な肢体には少しばかりのくすみも見られず、飼い主の愛が見て取れた。
 お前はだれかのものであるのに、こんな場所で知らない男に撫でられているなんて不義理なやつだな。そう思いながら小さな肉球を弄んでいた。

 季節が変わり、木枯らしが吹く頃になると、その猫はぱったり姿を見せなくなった。猫は寒い日にはこたつで丸くなるような生き物だ、外に出なくなったのだろう。少しばかり肌寒さが増したように思えた。
 だが真っ直ぐ家に帰るとなかなか寝付けず、人の習慣に感動のようなものを抱きながら、猫と会えなくなってからも公園で時間を潰した。

 ある月のよく見える日、その公園の近くで赤子の声を聞いた。
 夜遅かったこともあり、これは大変な事だと声の方へと足をはやめたが、それは杞憂に終わった。赤子の声に聞こえたそれは、猫の嬌声であった。
 入口まで来てみると、電灯の下で戯れる白と黒が目に入った。
 あの猫だった。
 電灯に照らされ絡まり合う2人は、猫であるという事実の上で、どこか美しさを孕んでいた。まるでその電灯の下の空間のみが、正しく存在しているようだった。
 男は暫く眺めていたが、徐々にいたたまれないような気がしてきて、その場を離れた。

 帰りの道中、あの白猫が頭から離れなかった。たかが猫だと、湧き上がる気持ちを抑えるのに必死だった。
 知らない誰かが梳かした白い毛。
 ざらざらの舌。
 外での生活を思わせない柔らかな肉球。
 思い返していると無性に腹が立ってきた。
 せっかく与えた缶詰を毎回残す不義理さ。
 引っ掻いてきた爪。
 ドブ臭い身体。
 あの猫のあれが、あの猫のこれが、あいつのあれが、あいつの──。

 家に着く頃、彼の心は萎みきっていた。自分が滑稽にすら思えた。
 たかが猫さ、気にする事はない。だがその猫にさえ裏切られるなんて、お前は寂しいやつだな。
 もう意味を持たない缶詰を、半ば投げつけるようにゴミ箱に捨てた。

 しかしその夜、床に着いてからも白い猫は頭の真ん中に居座り続けた。萎みきったはずの気持ちのなかで、別の何かが膨らみ始めていた。
 1人悶々としていると、ふと彼女と過ごした過去が頭をよぎった。1度意識してしまうと、何度も共にすごしたこの部屋のそこかしこに、彼女の足跡を感じ取ることが出来た。
 3年愛し合った彼女のことは、今の今までさっぱり忘れていたにもかかわらず、たかが出会って半年の猫1匹頭から追い出せない現状の向こうに、己の薄情さを垣間見た。
 彼女に対する愛は、本物だっただろうか。
 そんな疑念が、ぼんやり浮かんできた。

 2年目の記念日に渡した花束の花の種類や、人の良さそうな店員が教えてくれた花言葉まではっきり覚えている。クリスマスの日に渡した流行りのリップのブランドも覚えている。
 だが渡した時の顔が、靄がかかったようにぼんやりとして、はっきり思い出せない。
 彼女は笑っていただろうか。
 本当に、笑っていただろうか。
 私が愛したのは彼女だっただろうか。
 それとも献身的で恋人を大切にする、素敵な自分だっただろうか。
 最後に、愛をもって、この腕で、彼女を抱きしめたのはいつだっただろうか。
 彼女の好きなバンドはなんだっただろうか。
 彼女の好きな俳優は誰だっただろうか。
 好きな店は、好きな色は、好きな映画は──。

 そうか、薄情だったのは。

 猫はもう、ベンチの下にも、茂みの中にも、腕の中にも、安アパートの中にも、いなかった。
 男に残されたのは、頭の中で絡まる2匹と、まだ未読のままの、彼女からの最後のメッセージだった。

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