イン・マイ・ブレイン
「知ってる?死んだ人の脳を食べると幸せになるんだよ」
海のような静かな眼には、確かな儚さが潜んでいた。
夢をあきらめないで。皆さんには無数の選択肢があり、輝かしい未来があります。だからどうか、夢をあきらめないで――そういっていたのは誰だっただろうか。小学校の校長だっただろうか。それとも卒業式の来賓だっただろうか。中高生特有の幼い反抗心が、大人を見下していた。しかし、その誰かが放ったその陳腐で簡素な言葉は、悔しいことに私の心に沈殿していたのだった。
私には夢がなかった。中学、高校と地元が同じ友人たちと毎日つるんで、それなりに楽しい時間を過ごした。高校生活が半分を過ぎるころ、私を取り巻く空気が変わったことに動じないふりをしていた。そう、大学受験だ。
まじめに考えろ、お前のことなんだぞ、と白紙の進路希望調査書を見て担任は言う。周りの人間は、もちろん友人も含めて真剣だった。
大学が何だっていうんだ。いままで何の問題もなく生きてこれたじゃないか。現に高卒で財を成す者だっているだろう。気にすることはない、どうとでもなる。学歴なんて名前だけのものさ。そう強がっていた。
そして当時の学力で入れる、適当な大学を選んだ。そのとき私は気づいていなかった。人生をどうにかできるのは、試みるものだけだということに。
周りが就活でせわしなくなる大学の三年後半、私はその空気感に嫌気がさして高校の友人たちに会いに行ったことがある。大学の人間とはもともとうまく馴染めなかった。感覚が合わないからだと己に言い聞かせていたが、心のどこかで周囲の人間を皆見下していたのだろう。
級友たちは、どこどこの企業がなんだとか、なになにさんはどこそこの企業の面接に受かったとかそんなことばかり話していた気がする。
興味がないふうにスマートフォンをいじっていた私に、お前はどうなんだよ、と友人が尋ねた。あのとき、俺は海外に留学するんだよ、夢があるから、と嘘をついたのは何故だろう。あのときの友人たちはどんな表情をしていただろうか。
人生は川と同じだと誰かが言っていた。はじめは皆おなじ緩やかな川に身を任せ、流されていくだけだ。だがそのうち流れは速くなっていく。意志を持つものは、泳いで己の好ましい場所へと通ずる支流へと向かう。そうでないものは気付けばもう己の力では泳ぐことができなくなって、その流れに運命を委ねる他なくなると。
そうして私は海に出た。生きる術も、向かう先も知らぬまま。
夢を語る人間が好きではなかった。どの人間も口々に身の丈に合わない野望を口にする。それが実現するものだと信じて疑わない。その嫌悪感はおそらく羨みだったのだろうと、今ならわかる。
そうして定職に就くことができずに二年がたった。いい大学を出ているわけでもなく、職歴があるわけでもない。時給だけで選んだコールセンターのバイトで食いつなぐ日々。
不満なんてないさ、と布団の中で強がってみるも、心に広がる漠然とした不安が、ただ私をみじめにするだけだった。まるで操作の出来ないヨットだ。風がなければ進むこともできない。ただ沈んでいないだけ。
そんな時、同窓会の便りが届いた。興味なんてないと軽く目を通して放り投げたが、その次の日には出席に丸をつけて投函した。
会場に向かう電車の中で、自分が想像以上に期待していることに気づいた。これまでの日々は孤独だった。少し見栄を張ったばかりに孤立してしまった。
今だけは自分に正直でいよう。この最低な毎日も、不安におぼれた自分もすべてぶちまけてしまおう。あいつらに会えばきっとなんとかなる。
そんな幻想はすぐに崩れた。私とまともに取り合ってくれる人間はいなかった。というより私がついていけなかった。あいつは今度千葉で支店長になるらしい。あいつはカナダで働いているらしい。あいつは今結婚して二人の子供が生まれるらしい。
二年、たった二年足踏みしていただけなのに、周囲の人間にもう何十年も差をつけられてしまった錯覚に陥った。私が海をたださまよっている間に、彼らは各々の場所で、彼らの船で、波を切り裂いて進んでいた。
進学を機に仲が悪くなったわけではなかった。一度築いた友情は確固たるものであると錯覚していたのだ。だが現実はそうではなく、野風に晒され続けたそれは、知らぬ間に風化していた。
誰かが私に話を振ることもなく、いざ私が発言すると、ぎこちない匂いが漂った。
今大変なんだろ、気にすんなよ、そのうちどうにかなるさとかつての友人が声をかけてくれた。だがその眼には明らかに哀れみの色が浮かんでいた。以前に何度も見たことがある。かつての担任も、大学の友人も、そしてここにいる友人もみな、同じ眼をしていた。
私は逃げるように店を出た。去り際に、あいつ威張ってたくせに今は、というささやきが聞こえた気がした。
外に出て風にあたりたかったが、空気は淀んでいた。飲み屋街の通りは人で賑わっている。街に居ることさえ場違いなような気がした。
煙草に火をつける。私が築いていた人とのつながりは、果たして本物だったのだろうか。同じ場所にいた、ただそれだけの理由で集まっていただけだったのではなかろうか。
大学で馴染めなかったのは、私のせいだった。友人と集まったあの夜の嘘は必然だったのだろう。そうか。結局、私は何も成してこなかったのだ。問題がなかった、か。確かにそうだ。うまくもいっていなかったのだから。
気づくとほとんど吸っていないのに、煙草は八割がた灰になっていた。少し離れた、灰皿が置かれているだけの喫煙所に目を向けると、二人の中年の男性と青年が談笑していた。サラリーマンなんて絶対なるものか、と思っていた自分を恥じた。今の自分と比べたら、彼らはいかほど崇高な人生を送ってきたのだろうか。
彼らだけではない。この通りを歩く人々の数だけ、夢が、人生があるのだろう。夢が人を動かす。夢が人に希望を与える。夢を持つ者だけが、真に生きていける。
しょうもない憂鬱に浸っている自分が気持ち悪い。もう帰ろう。そう思い荷物を取りに暖簾をくぐった。友人たちと再度顔を突き合わせるのが気まずくあったが、彼らはほかの席へと移動したようで、杞憂に終わった。
貸切った飲み屋の隅に、私のように何人かが取り残されている。その中の一人に彼女がいた。彼女は、私が逃避している間に正面の席に移動してきたようだった。
先ほどとは違った不快感を覚えながら席に着いた。その彼女とは学生時代、少しだけ会話したことがある気がする。
彼女も逃げてきた一人なのだろうか。私の視線に気が付いた彼女が顔を向けた。綺麗な黒髪が揺れる。気まずさを感じて顔を背けようとすると、彼女はつぶやいた。知ってる?死んだ人の脳を食べると幸せになるんだよ、と――
何を言っているのかわからず、思考が停止した。宗教勧誘の文字が頭をよぎる。
私が身構えた事に気が付いていないのか、彼女は話し続けた。
「カマキリってさ、子供ができるとメスがオスを食べちゃうんだ。栄養にするためにね」
生物界では生きるために共食いをすることがある。それくらいの知識は私も持っていた。
「食べられてもそれは子供たちの栄養になるから、オスにとっても利益なんだ。だから人間も、他の人を食べて栄養にするんだよ」
さも当然、といったふうな顔で話す彼女の顔は真剣そのもので、からかっているようには思えない。訝しむ私にやっと気が付いたようで、ごめんごめん、気にしないでと彼女ははにかんだ。
意図が全く見えず気味が悪かったが、気にしないことにした。誰だって美女には弱い。
事実として私は嬉しかった。彼女が美しいからでもあったが、今日、初めて私に警戒せずに話してくれた人間であったからだ。
それってさ、何か証拠とかあんの、と何でもない風を装って話しかけた。ふと先ほどまで憂鬱だった自分を思い出し、悲劇を演じていたって仕方がないじゃないか、と心に言い訳をした。
「本当にそうかどうかは関係ないよ。そうだったら面白いなあって話」
彼女は照れ笑いのような笑顔を見せた。
「エモいって言葉嫌いなんだよねえ。知らない間に元ある言葉の意味がねじ曲げられてさ、それを知らない人が違った解釈をして、それが多数になったから定義が変わっちゃったんだ」
生ぬるい風が吹く川沿いで、彼女は缶ビールを片手におどけて見せた。同窓会が終わってからも、私たちは共にいた。もう片方には特に装飾もされていないスマートフォンが握られており、何か懐かしい曲をかけているようだった。
「覚えてない?Paramoreが好きって話、昔したよね」
昔とはいつの事だろう。だがParamoreが好きだったのは確かだ。fall out boyも好きだった。
「そうそう!私が教えたんだよ、それ」
寂れたアパートの前で彼女と別れた。下心がなかった訳ではないが、帰ることにした。どうも彼女によれば、私と彼女はそれなりに面識があったらしい。そんなことあっただろうか。それを忘れている事が申し訳なく感じた。また、不慣れな酒を飲みすぎたこと、また奇妙な雰囲気に当てられたこともあり、部屋に戻って身を休めたい感情が勝った。
「もし私が死んだらさあ、私の脳、君にあげるよ」
別れ際、彼女はそんなことをまだ言っていた。面白半分で聞いていた私は、いいよ、このボロアパートに頼むわ、と言って住所を教えた。
おかしな体験だったにせよ、その非日常感は私の元来の欲求を満たすのには十分であった。
翌日、蒸し暑さで目が覚めた。半分ほど引かれたカーテンの隙間からこぼれる蝉の声が、重たい頭に響く。温暖湿潤気候が憎い。
汗で服が張り付いた体をやっとの思いで起こし、台所へと向かう。蛇口から出るぬるい水で顔を洗った。
認識しているよりも友人たちの存在は大きかったんだな、と昨日のことをどこか他人事のように感じていた。インスタントな感傷は、得やすく、失いやすい。
心のどこかで、何かが崩れていた。
それからはなんともない日々の繰り返しだった。楽しいことも悲しいこともなかった。プライドがなければ劣等感は生まれない。向上心がなければ不満は生まれない。望みがなければ絶望もまた、存在しえない。気が付けば三十路手前で、未だフリーターのままだった。不人生の意味など、考える必要がないように思えた。
ある朝、私の元へ荷物が送られてきた。差出人は名前から察するに女性のようで、送り主の住所は記されていなかった。小さな段ボール箱の中には小ぶりな薄茶色の瓶と便箋が一通、入っていた。
罫線のみのなんの特徴もない紙切れだった。
「私は死ぬことにしました。約束の通り、君にあげるね」
右下にデフォルメされた脳の絵が書かれていた。
瓶をよく見ると、瓶自体は透明で、中の液体が茶色いようだった。その中に、ザーサイのようなそれが浮かんでいた。
まさか、と思った。非現実が脳を停止させた。数年前の記憶がよみがえってくる。美しく、儚い彼女が、何かを告げていた。
麻痺した思考は、まるで初めからそうすべきであったかのように、瓶のなかのそれを皿に出した。それは何だか海鮮物のような、もしくは豚や牛の臓物のようなものに見えた。美しい。そう思った。
希望に良く似て、少し違うような感情が浮かび上がった。必死にそれを私から締め出そうとしたが、それは一向に去る気配がなかった。まるで感情や理性を超越した、いわば本能。もしくは別の何か。
ステンレス製の調理台に置かれた皿は、神秘的で妖艶にも思えた。呼吸さえ憚られるような緊張感が小さな台所に充満している。体中から汗が噴き出していた。本能がそれを食えと迫る。震える腕が、私の意識などお構いなしに伸びてゆく。素手でそれを過剰なほどの力で握り、ゆっくりと口に運ぶ。もう一度皿に手を伸ばす。口に運ぶ。伸ばす。口に運ぶ。伸ばす。食べる。伸ばす。食べる。食べる。食べる。
脳の中では、カマキリのメスが、小さなオスをばりばりと捕食していた。彼らの眼は、恍惚に満ちていた。
夢を見た。私は頼りない小さなボートで、広大な海に浮かんでいた。手には折れてしまったオールが握られている。悲しそうな表情を浮かべていたが、内面には、たしかな安心感が広がっていた。良かった、もうこれ以上彷徨わなくていいのだ。ここで私の船旅は終わるのだ。
泳げるよね、と声が聞こえた。隣を見ると、例の彼女がいた。飛び込んでみなよ、と私に微笑みかける。何のために飛び込むというのだろうか。こんな広い海で、泳げたとしても助かる見込みはない。進路はさ、自分で決めなくちゃ。そういうと、彼女は海に飛び込んだ。無茶だ。自殺行為だ。彼女は一向に浮上してこない。覚悟を決めて上着を脱ぎ棄てた。深呼吸をして、海へと飛び込んだ。
突き刺すような冷たい風が吹いている。二回吸って、二回吐く。イヤフォンから流れる音楽にリズムを奪われないように、規則的に呼吸をする。静かな街を走っていると、まるでこの街に私しかいないような感覚に陥る。それは少しの孤独と、高揚感をもたらした。いつもなら折り返す道を、今日はもう少し進んでみる。緩やかなカーブを曲がると坂が見えた。一秒にも満たない葛藤を振り切って坂を駆け上がった。頂点につくと、ビル群の歪な地平線から太陽が顔を出し、街を温め始めていた。
私に異変が起き始めたのは数日経ってからだった。
はじめてそれが起きたのは、ある用事があって、降りたことのない駅へと向かった時のこと。駅周辺には飲み屋や、スーパーなどの複合施設などがあり、平日の昼間であるにもかかわらず人が多かった。
目的地はそこから少し歩いたところにあり、大通りをそれて脇道に入った。その時、景色に妙な既視感を覚えた。昔訪れたことがあっただろうか。それとも映画やドラマで似たような場所を見たのだろうか。だが、並ぶ家々や、わかれ道のその先の様子、猫が住み着いている空地の場所など、通り道のほぼすべてが、まるで眼前にあるようにはっきりと分かる。どうもおかしい。そんなことを考えているうちに目的地へとたどり着いた。本屋だった。
その本屋は二階建てで、青い看板にフルタ書房と書かれていた。ガラスの押戸を開けて中に入り、文庫本のコーナーへと向かう。ふと思った。なぜ私は本屋にいるのだろう、と。ここに向かってきたのは確かだが、動機が全く分からない。もともと私は本など読まない性分で、家に本など一冊もない。高校の国語の教科書を最後に、文学には触れてこなかった。
それなのに私は、フランツ・カフカの『変身』と、ヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』の二冊を抱えて、レジへと向かっているのであった。
この妙な既視感はたびたび起こった。それはつまり外出する機会が増えたことを意味している。学生の頃はそれなりに遊んでいたが、卒業して以降は気力が湧かず、ベッドで一日を過ごすことも少なくなかった。
それが近ごろは、突風のような強い衝動が内に起こり、私を外の世界へといざなうのだ。行く先は本屋であったり、雑貨屋であったり、CDショップであったり、とにかく私とは接点がないような場所ばかりだ。だがそれにもかかわらず懐かしいような、落ち着くような感覚をそこに抱くのであった。
知らぬ間に生活が変化していた。早寝早起きはもちろんのこと、食生活にも気を配り、健康のお手本のような日々を送っていた。煙草も止めた。ある朝いつも通り換気扇の下で煙草に火をつけると、体中に嫌悪感が走った。吸うことはできるがおいしくない。いつの間にかやめてしまった。
そうして早朝の空いた時間をランニングや読書に回すようになったのだった。
帰宅してシャワーを浴びる。身なりを整えて、昨日のうちにまとめておいた燃えるゴミの袋を携えて家を出た。
件の出来事からしばらくして職を得た。福祉施設で採用されたのだ。何か特別なことをしたわけではない。選ぶのをやめ、募集している企業の面接を片っ端から受けただけだ。
見栄を張ることに何の意味があるだろう。幼稚なプライドのせいで憂鬱があった。いつ捨てたか覚えてはいなかったが、気づけば手元から消えていたた。
働くのは面倒だった。肉体労働が多かったし、老人たちへの接し方など微塵もわからず、常に気を配らなくてはなかった。怒らせてしまうことも多々あったし、介護時の注意不足で痛がられることもあった。慣れない環境に苦労する日々だ。
だがその疲労感は不思議と心地よさと共に身に染みていった。社会に受け入れられているような気がした。苦闘そのものが、甘えてきた自分への赦しであるように感ぜられた。
ここでは強がる必要も、見栄を張る必要もない。多くの人間は社会に適合しない人間を白い目で見る。彼らにとっての当たり前から外れた存在を、まるでハエやネズミを見るような、穢れたようなものを見る目で、或いはその奥に嘲笑を宿した憐憫の眼で見る。私はそれが恐ろしかったように思う。いつか見たあの、残酷なほどに澄んだ色を。
だが老人たちはそうではなかった。私の手をしっかりと握って、大丈夫、そのうち何とかなる、と励ましてくれる人さえあった。彼らの眼にあの色はなかった。人生をゆうに折り返した人々にとって、若造のことなどどうでもよかったのかもしれない。それでもその眼は「私」を見ていた。
ふと考えることがある。一体何が私を変えたのだろうか。やはり思い込みだろうか。人間は脳のほとんどの機能を使っていない、と昔何かのテレビ番組で言っていた気がする。
昔、主人公がとある薬を服用して、脳の機能のリミットを外し、天才的思考で成功するという内容の映画を観た。思考は深くなったかもしれないが、私は天才にはならなかった。
試しにスペイン語の教材を読んでみたがさっぱりだ。老婆が庭を荒らした少年をしかり、少年が弁明しようとするやり取りだけ覚えたのみで、今では本棚のにぎやかしとして、オレンジの背表紙が鎮座している。
だが思い込み以外の原因が見つからない。ランニングに出かける朝がある。純文学や啓発本を読んで思考をめぐらせる昼がある。今まで感じたことない漠然とした将来への不安が起こる夜がある。
これは、私なのだろうか。まるで他人のようだ。彼女の脳を食べてから。
脳。
眠れないある晩、身体を起こして、チラシの裏に漢字で書いてみた。
彼女の脳を食べたことで、彼女の思考が私の中に起こった――?
非現実的なひらめきが、からっぽの腹にすとんと落ちた。
この習慣は、この知識は、この意識は。
彼女なのだろうか。
白いノートパソコンを起動させ、検索サイトを開く。
女性の事故、自殺、行方不明、殺人、○○市、変質者。どんな検索ワードを入れても、探している答えは見つからなかった。だが私には分かっていた。彼女は既にこの世を、本当に去っているということを。
カーソルをバツ印に合わせる。少し思い悩んで、閉じる代わりにもう一度検索欄に文字を打ち込んだ。彼女の名前が表示される。
どの検索結果にも、死亡事故に関するような言葉はなかった。代わりに名前占い、恐らく同姓同名の人間のFacebook、苗字が同じ有名人のゴシップが並んだ。そして同名の陸上選手の記事の下に、それを見つけた。
「イン・マイ・ブレイン」と書かれたそのサイトは、どうやらブログのようなものであった。同姓同名か、はたまた彼女が本名で執筆していたのか、作者名は確かに彼女であった。
私はそのブログを読めずにいた。タイトルも、作者名も、明らかにそこになんらかの答えがあることを示していた。
淡い期待をしていた。その文末に「友人に脳と偽ってホルモンを贈りつけてみようと思います。どんな反応をするのか楽しみです」とでも書かれていて欲しい。そうすればすべらない話として一生話していけるだろう。私が彼女の手のひらでまんまと踊らされているとしたら、どれほど良いだろうか。
「脳を実際に食べさせてみて、彼を新人類にしたいと思います」みたいな事が書かれていて、本当に脳を食べる実験体として私が選ばれた、という仮説を立てた。これは我ながら面白いと思った。映画なんかを作ったらそこそこ売れるのではないだろうか。
事実としての形はどうであれ、私になにかが起きており、今のところそれは私には明らかに良い変化を起こしている。
結局そのサイトを開く勇気は出ず、自分に起きている一連の変化には一度目を瞑ることにした。
ある時、施設の老人が息を引き取った。そういうことは今まで何度かあったが、その人は私がよく会話するうちの一人だった。
息子たちから邪魔者扱いされ、施設に入れられたんだと自嘲気味に話していた。誰が飯を食わせて、学校へ通わせてやったのか忘れてやがるんだ。一度この手でぶん殴るまでは死ねないそうだ。そのくせ、こちらから水を向けると、笑顔を隠そうともしないで、取るに足りない事まで大袈裟に話して、我が子がいかに立派で優れているのか、スタッフたちに語り続けるのであった。
大声で話し、よく食べ、よく笑う、豪快な人だった。汽車の運転手をしていたらしい。
わしが若い時はなあ、シャベルで石炭を毎日百二十トン近く運んでいたんだ、と言っては最近の若者の軟弱さについて公演していた。それが冗談であることなど言わずもがな、周りの人間から愛されていた。
彼は他の入居者とも仲が良かったが、最後は広い個室で一人きり、その生涯を終えた。誰もいなくなった個室には、乾いた空気と、美しい日差しだけが残されていた。
その日の夜、彼の人生に思いを馳せた。人当たりが良い彼は職場で嫌われることはなかっただろう。それなりに成功していたかもしれない。
彼の人生の転機はいつだったのだろうか。結婚だろうか。息子らの誕生だろうか。人当たりがいいとはいえ、あのクチだ。敵はいたかもしれない。
いずれにせよ、苦労してきた人間が、一人きりで亡くなってしまうなんて、あまりにも寂しい。その死の間際、彼は一体何を思っていたのだろうか。彼は幸せにその生涯を終えたのだろうか。彼の船は、どこでその使命を終えたのだろうか。
後日、かの老人の息子たちが挨拶にやってきた。二人ともがっしりとした体躯の大男で、長男の方は髪を短く刈り込み、次男は長い髪を一つに束ねている。あの老人が若者の、しかも男の長髪を許せるとは考えにくいが、息子となれば話は別なのだろう。頬を緩めて彼らを称える老人の顔が浮かんだ。
親父は頭が固い、考え方が古い、こぶしで殴られたのも一度や二度ではないんだ。父親への毒を吐く彼らの口元は緩んでいた。親父もやっと休めるでしょう。何せ馬車馬のような人でしたから、そう言った長男は顔に笑みを浮かべながら、音もなく涙を流した。
それではこれで、と駐車場に歩いていく二人の肩は静かに震えていた。だがそれでもその背中は逞しく、その双肩を震わせる悲しみは計り知れなかった。
船はいつか朽ちようとも、切り開いた海路や見つけた財産は後世に残されるのかもしれない。そう思った。
街を吹く風はすっかり朱く変わって、ベランダから身体を縮こめて家路を急ぐ様々な人が見えた。電話で連絡を取りながら歩く会社員風の中年男性。スーパーの袋を片手に歩く女性。反対の手には水色のスモックを着た子供の手が握られている。身を寄せ合いながらゆっくり進む若いカップル。その脇をスポーツバッグを肩に掛けた学生たちが、自転車で列をなして通り過ぎていく。老人が犬を散歩している。前を歩く茶色の犬が時々止まって、老人の方を振り返っている。
それぞれがその内に苦労を、夢を、人生を抱えている。その荷物たちは思ったより複雑で、古くて、人間臭い。それらを積みながら、時には増やし、捨てて、壊して直して、船は走っていくのだろう。
私の船は、走り出しているのだろうか。私は、幸せに向かっているのだろうか。もちろん以前とは比べ物にならいほど生活は変わった。だが、一向に手ごたえを感じなかった。
その日、すすで汚れた黒いベランダは世界と切り離されていた。
ノートパソコンを立ち上げる。例のサイトはまだ消えていなかった。イン・マイ・ブレイン。そのブログを開く覚悟が、その夜、美しい星の見えるその夜、出来た。
人はいつ死ぬのだろう。
死んだら、私の中にある記憶や経験は消えてしまう。
今まで見た景色も、耳で聞いた音や音楽も、思考を巡らせ考えたことも、蓄積された知識や経験も、その日にすべてなくなってしまう。その人間の価値を構成していたもの、そのすべてが。
一つだけ、それを回避する方法がある。それは誰かの記憶に残ること。それは何かを遺すこと。
どんな素晴らしい人間だって、死んで灰になってしまえば見分けなんてつかない。だけど彼らの軌跡は違う。形はなくとも、消えることはない。カフカの作品だって、彼の死後有名になったものがほとんだ。彼の一部は作品に姿を変え、生き続けていく。
この長い長い地球の歴史において、火花よりもあっという間に消えてしまう人間の一瞬は、無意味だ。それは誰にでも言えること。人生に価値を見出すのは本人ではない。その周囲の人たちのみが、その人の人生に意味を持たせる。
別に偉大なものを遺さなくたって構わない。その人が何気なく発した言葉や、その人との記憶というものは、なぜかふと思い出す。そうして誰かが思い出してくれるなら、私はそれでいい。
人は忘れ去られたとき、死んでしまう。
元から存在していなかったのと変わらない。
私はそれが恐ろしい。今ここに私はいる。誰からも見向きされなくともここにいるのに、最後にすべてなくなってしまうのなら、どれだけ強がっても、どれだけ苦労しても、ただ滑稽で空しいだけだ。
ある短編集を読んだ。『独白するユニバーサル横メルカトル』。この中の「Ωの聖餐」では、オメガと呼ばれる大男が登場する。彼は人間を食べ、その人間の知識を己のものとするのだ。
それを読み終わったときに思った。私の脳を誰かに食べてもらおう、と。
もちろん「Ωの聖餐」がフィクションだということなど理解している。だけど、それでも誰かに食べてほしかった。この知識が引き継がれなくとも、鮮烈な思い出として、生きていける気がした。死を持ってして、初めて意味を見出すことが出来る気がした。
共食いという行為は、生物界で度々起こる。
多くの場合は食べたいからではなく、食べざるを得ないから食べる。
カマキリは生殖行為ののち、オスが食べられる事がある。だが食べられたとしてもそれはメスの栄養、つまり子供たち、未来への糧となる。
食べられることで、他人とその未来への糧となるのであれば、それは喜ばしいことだと思う。
私のことをおかしいと笑うだろうか。確かにおかしいかもしれない。でもその考えが頭から離れない。
私はたいてい図書室に居た。もともと本が好きだったわけではない。初めて読んだのは、死んだ母がくれた原田マハ。逃げるために訪れていた図書室は、やがて私の楽園となった。邪魔も、嫌がらせも、暴力もない、幸せの時間。
「それ、難しそうだね」
顔を上げると、彼がいた。好奇の目で私を見ていた。多少身構えたが、その眼に敵意はなかった。そのとき読んでいたのは、夏目漱石の『こころ』だ。
「これですか。確かに難しいんですけど、面白いですよ」
少し考えるそぶりを見せて、彼はまた口を開いた。
「もしかして見せつけてる?」
ついつい笑ってしまった。図書室で難しい本を読んでいる人間を見るたびに、彼はそう思うのだろうか。宗教学や純文学の棚を見たら気絶してしまうかもしれない。
「もしそうしようとしているなら教室でやりますよ。わざわざ図書室の端っこで読んだりせずに」
「じゃあ、なんでわざわざ難しい本読んでんの?」
なんで、だろうか。本があるから読む。それだけだ。
「うーん、ざっくり言うなら、頭のいい人の考え方とか、捉え方とかを知りたいんです。別に参考にしたいとかそういう傲慢な事じゃなくて、ただ彼らの世界に触れたいんです。
彼らの視点から見える世界って、脳を直接見れるわけじゃないから、分かりませんよね。けど彼らの本を読んでるとなんとなく、わかったような気になるんですよ。気になるだけですけどね」
不思議なことに、口を開くとすらすら言葉が出た。しかもその言葉におそらく嘘はない。考えていることを言語化するというのは、案外重要なことなのかもしれないと思った。
「ふうん。賢い人の考えることはよくわかんないや」
その後は音楽の話なんかをしたような気がする。暗い女だと思われたくなくて、ロックを聴いていると言った。嘘ではない。生前父が聴いていたのだ。ぼろくて渋い、シルバーのセダンでよく流していた。
彼はどうも私よりも知識が浅いようで、知ったかぶりをして話を聞いていたようだった。彼が明らかにうろたえているのが面白かったので、とりあえず知っている曲を紙に書いて、おすすめと偽って押し付けた。
その後はCDショップに走って、好みに近い曲が収録されている、それっぽいCDを借りた。それを焼き増しして、翌日彼に渡した。「My Fav」という、何のひねりもない文字と共に。
そういった関係は長くは続かなかった。図書室で話す頻度は徐々に増え、彼にCDを渡すこともたびたびあった。だがそういった行動が、私を好かない者たちをより苛立たせたのだろう。図書室はもう、安全な場所ではなくなっていた。
すがる思いで彼を訪ねたとき、聞こえてしまった。俺も迷惑してんのよ、もう来なくていいのになあ、と。
今までの楽しそうな表情は偽りだったのだろうか。彼もまた、私を馬鹿にする人間の一人だったのだろうか。
私はその過去をほとんど覚えていなかったが、彼女は覚えていた。彼女の面影を私の中に認めた途端、脳内に走馬灯が走った。
彼女の生い立ち、彼女の知識、経験、思い、苦悩、そして彼女の過ごした人生、そのすべてが。
結局のところ、手を差し伸べてくれるのは誰でもよかった。この全てを、私を、理解して欲しかった。それらを伝える手段を私は知らなかった。
幼いころに両親を亡くしたこと。引き取り先の親戚に酷い仕打ちを受けたこと。学校でいじめられていたこと。そのすべてを言い訳にしたくなかった。それらを口にしていったい何になるのだろうか。同情などしてほしくない。私そのものを見てほしかった。
劣等感から勉学に力を入れた。悲劇のプリンセスにはなりたくなかった。その結果と自信のみが私を支えていた。自分を磨くために様々な本を読んで、広い知識を得た。音楽を聴いた。そういったものが、自分らしさ、己の価値観を輝かせると信じて疑わなかった。その実、何かに熱中していなければ、不幸に押しつぶされてしまいそうだった。
しかし社会において、それらは全く私を助けることはなかった。個人の美しさなど、必要がなかった。信じてきたものは、評価される対象にもなり得なかった。
一人で戦うことには慣れていたつもりだった。ただ、頼りにしていたコンパスを失ってしまっただけ。また探せばいい。そう思っても、身体はついてこなかった。どこに向かったらいいのかわからなかった。憂鬱に飲まれていた。
その憂鬱の矮小さ、不必要さは痛いほどわかっていた。なるまいなるまいとしていた悲劇のプリンセスに、私は既に成り果てていた。
不幸を乗り越え自己研鑽する日々に、恍惚を抱かなかった、驕りがなかったとは言えない。鏡に映る自分を、どこかナルシシズムに見つめたことがないか、と聞かれれば即答はできない。結局、愛しい憂鬱を捨て去る勇気は私にはなかったのだ。そうしてしまったら、私を否定することになるから。
いつの間にかその不幸に根付いていた自信は、皮肉なことに私を構成する重要な要素になっていた。
己の姿を疑うとも捨てることはできず、ありふれた人間になりたくないというプライドに、いつの間にか私の舵を預けていた。
その結果である憂鬱な日々に、得るものなどないその向こうに目を伏せながら。
がんじがらめになった思考を、どこから解けば良いのかわからなくなっていた。本当は気づいていた。この全てが己への長い言い訳であること。
初めてそれと向き合った時、彼女はその憂鬱を捨てた。そうして私は、彼女だけのオメガとなった。
幸せの定義とはなんだろうか。巨万の富を築く事だろうか。沢山の人間に囲まれることだろうか。充実した生活を送ることだろうか。夢を追い、そこにたどり着くことだろうか。
おそらくその全てが正しく、そして誤っている。各々が幸せの形を模索している。その甘い幻想を追いつづけ、あるものはたどり着き、あるものは絶望に沈み、あるものは進むことをやめてしまう。
誰もがかの老人のように生きることはできない。海には多くの船の残骸が沈んでいる。水上にいるものたちの眼に、沈んだ者たちは映らない。
私の――私たちの幸せとは、そうではない。
誰かに私を感じてもらうということ。落ちこぼれだって、長所がなくたって、価値なんてなくたって、私という存在を認めてもらうこと。ただそれだけだった。
憂鬱ばかりに目を向けるのは人の勝手だ。だが確かに存在していた幸せを自ら気付かないふりをして、心地の良い暗闇に浸っていたのは自分自身だった。
生も死もドラマにはなり得ない。己自身だけでは。
それからしばらく経ち、彼は結論を得た。彼女の人生を昇華してあげられるのは、私だ。私以外が彼女のことを忘れてしまっても、彼女が旅をともにしてきた船はここにある。
彼女には悪いが、ここからは私が舵をとる。それは間違いかもしれない。だから何だというのだ。私が生きている限り、その正解を知るすべはないのだ。
あきらめることは簡単だ。だがそうしてしまったら彼女の人生は意味を持たない。いつかこの船を、一人のドラマと共に誰かに譲る日が来るかもしれない。その時まで、前に進むしかない。それが弔いとなるのだから。
「私、人生って川みたいなものだと思うの」
「……つまり俺たちは魚ってこと?」
「ちがうよ。いや、そうかも。とにかく川みたいなものなんだよ。
初めはみんな同じ川にいるんだ。何もわからないから、はじめは流されていくだけ。でも川は流れが速くなったり、狭くなったりする。最後には海につながるけど、違う流れに乗って池に行ってもいいし、湖にも行けるんだ」
「人生は思いのまま、ってことか」
「ちょっと違うかな。意志がないとダメ。こうしたい、って思いがその人を動かして、自分が行きたい場所へ進めるの。
海に出たら私たちは船に乗って進む。それまでに準備をしなくちゃいけない。自由っていうのは身に余るんだ」
「俺は早く海に出たいかな。そうして縛られることなく自由でありたい」
「話、聞いてた?」