私が見た南国の星 第1集「蛍と夜空」⑩
クリスマス、大晦日、新年、海南島と日本では様子が違うようですが、そんな行事を通して、だんだんと社員と打ち解けていくんですね。「頑張れ、日本のママ!」
クリスマスってなに?
一人の女子社員が「ママ、クリスマスは何ですか?」と尋ねてきた。私は彼女のキラキラした黒い瞳を見て、急に自分が情けなくなってきた。
「あのね、クリスマスはイエス・キリスト様のお誕生をお祝いする日なの」と、答えた。
「ママ、その人は誰ですか?何歳ですか」と彼女が真剣に聞いて来るので、私は本当に困ってしまい、「中国語で、どのように説明すれば良いのかしら」と考えていた。そこへ料理長の龍君が楽しそうな顔でやって来て、
「みなさん、せっかくですよ!」
と言う彼の言葉に、笑いが止まらず涙まで出てきてしまった。先ほどまで私の説明を真剣に聞いていた彼女は、涙を出している私を見て怒り出し、
「料理長!ダメですよ、ママが可哀想です」
と言った。本当に怖い顔の彼女に、私はびっくりして、
「違うのよ、料理長が悪いのではないからね」
説明しても彼女の怒りは収まらず、困り果てた私は、
「みなさん!見て下さいね、綺麗な星でしょう」
と話題を変えるしかなかった。暫く社員たちと一緒に夜空を眺めて楽しんでいた。そして、社員も覚えたての言葉を何度も繰り返して
「メリークリスマス!」
と叫んで楽しんでいた。
世界中どこでも今日は楽しいパーティーをしているのだから、社員たちにも何かしてあげようと思った。時計は9時半を過ぎていたが、私は料理長や社員を車に乗せて町まで出掛ける事にした。私が運転する姿が嬉しいのか車内は歌声が流れて、まるでそれは「歓喜の歌」のようだった。「クリスマスツリーは夜空の星たち」そして、「イブを祝う歌声は南国の天使たち」だったと、毎年のクリスマス時期になると必ず思い出される。
町で社員たちのために、パーティー用のお菓子と果物やジュースを買った。何だか楽しいイブになりそうな予感がした。
結局、11時頃になってしまったが、社員たちとささやかなパーティーが始まった。私は、社員たちに片言の中国語と日本語で今日のパーティーについて説明した。今日はクリスマスイヴの夜だから、恥ずかしいけれど私の歌を聞かせる事にした。クリスマスソングや日本の童謡など5曲くらい歌った。音痴な私の歌声でしたが、社員たちは楽しそうにしてくれたのでホッとしまた。ケーキは間に合わなかったけれど、楽しいひと時は、彼女たちのいい思い出となった事だけは間違いない。日本では当たり前のようになってしまった行事だが、こんなにも新鮮なクリスマスイヴを味わった事はなかった。
子供の頃に父が教えてくれた「楽しい事は人にも与え、苦しい事は少しでも自分がもらいなさい」との言葉が甦ってきた。この島へ来なければ、父の言葉さえも忘れていた私だっただろう。今になって父に感謝の気持ちが湧いてきた。もう父はこの世にはいないけれど、きっと私の気持ちは伝わっているのだと信じている。父が私たちを喜ばせてくれたクリスマス、今度は私がこの島で子供たちを楽しませてあげる番なのだと思った。そして、亡き両親に対しても、心から「ありがとう」という気持ちが沸き起こってきた。
この島の子供たちは、ほとんどが貧しい農村で育ち、世界の平和願うなど考えたこともないだろう。自分たちの明日の生活さえもままならない彼らは、ボランティア活動などという言葉の意味さえ知らないに違いない。人を助ければ、必ず見返りがあると思っている。人のために自分の能力や体力を提供すれば収入になると考えている。これも生きるためには仕方がない考え方なのかもしれない。正直なところ、彼らは自分に利益がない事には見向きもしないと言っても過言ではない。誰を責める事も出来ないが、この中国ではごく普通の考え方のようだ。近年は、経済発展と共に政府の援助や企業団体の支援など、福祉の方面は改善が見られるようになって来た。外国投資企業も増え、2001年以降は海南島でもクリスマスを祝う行事が町の至る所で見られるようになった。
当時は農村の子供たちは未だクリスマスなど知らない子が多く、驚いたことに、小学校の校長先生から「クリスマスとは何ですか?教えて下さい」尋ねられる始末だった。教育者の立場である方でも知らないくらいだから、子供たちにはなんの関係もない行事なのは仕方のないことだ。
この2000年には義務教育制度が未だ定着していなかったので、学校へ行く事が出来ない子供たちも数多く存在していた。省都である海口市や、観光地の三亜市にある夜のネオン街で花売りをしたり、楽器を手にして歌を披露して働く子供の姿を数多く見かけたものだ。やがて義務教育制度も徐々に見直されてきたが、それでも農村の子供たちの就学率は100%という分けにはいかないようだ。
なぜならば、農村での働き手がないため子供たちは幼い頃から農業の手伝いをしなければならないからだ。教育委員会の人たちが何度も親を説得したりしているが、親たちからすれば「所詮、農民の子だから」と言い、子供たちに将来の夢と希望を与えることなどできないのだった。「蛙の子は蛙」と言う事だろうが、国の教育制度や思想など大きな違いがあるため、私たち日本人には理解し難い問題だ。
北京オリンピックの開催国が、このような実態である事を世界の人々はどのように受け止めるのだろう。個人的な考えとしては、今の中国が新しく生まれ変わる日が訪れなければ、農民たちの生活も安定する事はないと思っている。
2000年2月26日、この海南島に来てから10ヶ月間が経ったが、私の生活の中で理解出来ない事が多すぎると感じていた。しかし、何処の国でも同じようで、私の祖国である日本でも、外国人からすれば何処か変だと思うこともあるはずだから、やはりその土地の文化や風習をちゃんと理解することが大切だと今では思えるようになった。
この当時の私は常に日本を基準に考えすぎていたのかもしれないが、本当の中国を日本の皆さんにお伝えしなければならないと、私は今でも何かを求めて頑張っている。
行く年、来る年
この2000年も残り5日間余りとなり、振り返ってみれば「我が祖国、日本は本当に素晴らしい島国」だと思うことが多かった。でも、それは海南島の過去の歴史や、原住民の人たちの生き方を把握してない私が粋がっていただけかもしれない。だから、この当時の私の日記には、かなり中国を非難するような言葉が残っている。次に書かれてあるのは私の本音だと思うが、今になると恥ずかしい気持ちがこみあげて来る。
(日記より)
日本が戦後の動乱期を乗り越えてこられたのは、先輩たちのお陰なのだろう。この大国である中国が世界で先進国の仲間入りをするためには、やはり外国の文化や習慣を少しでも学ぶべきだと思う。面子ばかりにこだわり、自分の心の中を相手に見せないのが中国人の悪い癖ではないだろうか。
中国人が「あんな小さな島国」と、日本を批判するのもプライドなのかと疑問に思う。しかし、日本人の私からすれば「あんな小さな島国だけど」と、お返しの言葉を言いたい心境だ。この海南島に辿り着いてから、さまざまな出来事に遭遇した私だからこそ日本の国の素晴らしさを身にしみて感じることが出来たのだろう。この事に対しては、中国社会に感謝をしなければならないと思う。そして、同じアジアの国なのだから互いに協力し合い、平和な国づくりと発展を目指して頑張りたいと願うのだ。
と、日記に書かれてある文章を読み返すと、あの日あの時の出来事が走馬灯のように蘇ってくる。
大晦日
12月31日の大晦日を迎えた朝、遠く七仙嶺を眺めながら明日への希望に燃えた日が本当に懐かしくてならなかった。しかし、中国の新年は特別な行事も少なく、普通どおりの生活を送るようだと聞いていた。なぜならば、旧暦のお正月である「春節」が新しい年と言われているからだそうだ。
やはり文化と風習の違いなのだろう。社員たちも大晦日の夜は、いつもと変わらぬ表情で過ごしているようで何となく寂しい私だった。一人で部屋のテレビを見ていても、今年最後の日と感じる場面もなくて、気分がスッキリしないので、この夜は温泉に入ることにした。湯の温度も良くて、月の明かりに照らされた椰子の木が美しく心を和ませてくれた。一人で大晦日の夜を静かに過ごすのは生まれて始めての事なので、少し寂しい思いがしたが、自分を見つめなおす時間が持てた事は良かったと思っている。
日本と中国では時差が一時間あり、日本の方が先に新年を迎えている。日本の新しい年の幕開けを喜びながら部屋へ戻った。部屋の中へ入り本を読んでいた時だった。ドアをノックする音が聞こえたので、ドアを開けた瞬間、「パンパーン」と、クラッカーの音でびっくりして、目が覚めたようだった。数人の社員たちが、
「ママ、新年おめでとうございます」
と、一斉に元気な声で挨拶をしてくれた。時計を見ると、中国時間では2001年1月1日の午前零時が過ぎたばかりだった。思わぬ出来事だったので、嬉しさの余り感激の涙が出てしまった。
「ママ、新年から泣いてはダメですよ!」
社員に言われて感無量になった私だったが、負けずに、
「新年だから眼の掃除です!」
と言い返した。その時は、社員と思わず大笑いの楽しいひと時だった。優しい社員たちに感激したこの出来事は、私にとって大切な思い出の一ページとなった。
お正月
2001年の元旦の朝は日本人らしく正装をして、社員たちに新年の挨拶をした。中国語では簡単な挨拶しか出来ない私だったが、社員たちは嬉しそうな顔をして聞いてくれた。一人ずつ「お年玉」を渡す私に、「ありがとうございます」と、礼儀正しく言ってくれる社員たちに誇りを感じる想いがした。田舎の小さなリゾートホテルだが、どんなに有名なホテルよりも家族的な雰囲気だけは、何処にも負けない自信があった。新年予約は満室だった。忙しく動き回る社員を眺めて、私は満足感に浸っていた。
三が日は、社員たちも美味しい料理が食べられるので嬉しそうだった。彼らの楽しそうに働く姿は、今でも私の脳裏に焼きついている。もしも、この私がきちんと中国語が話せたら、社員たちともっと通じ合えるのに、言葉の問題が私の一番の悩みだった。
こうして、何とか無事に新しい年を迎えることができたが、三日目の朝にハプニングが起こった。チェックアウトを終えたお客様が、私に会いたいとの事だったので、フロントまで行くと、その方は中国人の方だった。日本人とばかり思っていたため困ってしまったが、挨拶だけでもしなければと笑顔で言葉をかけた。すると、早い口調で話されるため何を言われているのか全くわからず、笑顔でごまかすしかなかった。適当にうなずいたりしていたのだが、心中は穏やかではなかった。「早く帰ってくれないかしら」と祈るしかなかった。
すると、彼の携帯電話が鳴り出したのでホッとしたのも束の間、彼も気を遣ったのか、直ぐ電話を切ってしまった。困っている私を察してか、
「また、お会いしましょう。さようなら」
と、流暢な日本語で言われた。新年から本当に恥ずかしい思いがして情けなく、自分自身に腹立たしくなった。彼は貿易会社の社長らしく、文化レベルも高く国際感覚のある雰囲気の方だった。初対面でもあり、中国語の出来ない私の困った様子が手に取るようにわかったのだろう。最後に握手をした時、
「心配しないで、ゆっくり言葉の勉強をすれば良いですよ」
と言われてしまった。とても恥ずかしかったが、彼の言うとおり
「慌てず、ゆっくり正確に覚えよう」と素直な気持ちで受け止めた。
さっそく、中国語の本を開いて勉強をしてみたものの、発音がわからず身が入らなかった。社員たちの発音は、人によって違いすぎるため誰の発音が正しいのか、さっぱりわからない。やはり、今後の業務を考えれば通訳人が必要だと判断した私は、本社へ相談して通訳の派遣をお願いする事に決めた。
役員会議で現在の私の状況を理解してもらえたらしく、本社の方で通訳人を探していただく事になった。気分的にも楽になったが、自分なりに中国語を習得出来るまで頑張るつもりで意欲満々だった。
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