私が見た南国の星 第2集「苦しみを乗り越えて」⑪
⑩で登場した初恋の人にそっくりな彼についてのお話です。彼の名前は「阿浪(アーラン)」名前も素敵ですね。一瞬、ロマンス?と思ったりしてしまいましたが、そんなことはなかったみたいです。「人の縁」って本当に不思議なものですね。
阿浪のこと
初恋の彼とそっくりな中国人と海南島で出会ったのは、私にとって何かの縁だったのだろう。黄秋梅の友人の一人である中国人青年がその人だった。その青年の名前は「王興浪」と言った。黄秋梅から紹介されて10年以上になるが、今でも彼は私の海南生活を支えてくれる大切な存在だ。
2001年からは、彼と彼の友人たちとも交流が持てるようになり、暇な時には町で一緒にお茶会をしたりして、会話を楽しむようになった。
中国では、友人などの名前を呼ぶ時に名前の頭に「阿」を付けて呼ぶことが多いので、彼を呼ぶ時にも、阿浪「アラン」と私は呼んでいた。阿浪の名を呼ぶとき、昔の大切な恋人の面影を感じていたのは事実だった。阿浪と私は年齢からしても親子ほど違うので、私が離婚をして残してきた息子のようにも思えた。
彼は当時27歳だったが、明るい感じの子ではなかった。静かな音楽を好み、落ち着いた雰囲気のある青年だった。そして、仕事に関しての几帳面さは人一倍だった。彼の性格や日常の生活を見ていると、育った環境もよくと両親の躾が厳しかったのではないかと感じさせる、きちんとした青年だった。私が出会った頃の彼は、この海南島にある「熱帯作物研究所」に勤める国家公務員だった。海南島の大学を卒業してから、この研究所に入り、農作物や熱帯植物の研究と管理をしていたようだ。公務員と言っても、この当時は給料も決して高いとは言えず、自分の夢を実現させるにはほど遠い環境だったので、彼自身も転職を考え悩んでいたようだった。また、会話の中で子供の頃の夢を聞くと、日本に興味があることがわかった。小学生の頃、夜になると家の近くにある広場で上映する映画を見に出掛けるのが楽しみだったという。日本の映画を観るのが大好きな彼は、「吉永小百合」主演の映画を見て感動をしたらしく、自分の花嫁は「日本人の女性」と決めていたそうだ。少年時代は日本の映画を見る度、日本への夢を膨らませていたと聞いた。そして今回、私と出会ってから真剣に日本語を覚えようと決意したそうだ。仕事が終了してからホテルへやってくる彼は、だんだん明るくなってきた。
彼は「貴州省」の出身だという。海南の大学へ入学したので、卒業して海南島で就職が決まり、そのまま島で生活をするようになった。彼が育った貴州省の天柱県は、山々に囲まれた貧しい小さな町だった。堅実な父と忍耐力のある母、そして二人の兄と共に幸せに暮らしていた。ところが彼が中学生の頃に、この幸せな生活も終わってしまった。家族思いで優しい父が、突然この世を去ってしまったのだ。彼の母は子供の学費を親戚に頼んだが、断られ、町の片隅で行商しながら、女手一つで子供たちを育てた。そんな母の背中を見て、「いつかきっと、母を安心させて楽な生活をさせる」と自分に誓ったそうだ。彼が大学に入ってからも実家のある貴州省の家では、その日暮らしの生活が続き、大学生の彼は学費が払えず、滞納するようになってしまった。彼は、「もう、大学を辞めて働こう」とまで思ったが、「苦しくても頑張って卒業をしてほしい」という母の願いに応えて頑張ったが、学費を滞納していたので、卒業する日が来ても、自分だけ卒業証書がもらえなかったのだという。学校には家庭の事情を理解してもらって、勉学に励む事は出来、退学処分は免れたというが、滞納した学費を全て精算しなければ卒業証書はもらう事が出来なかったそうだ。
卒業証書がなければ、せっかく内定していた就職もダメになる。困り果てた彼は、クラスメイトの父に相談をした。友人の父は、自分が内定している「熱帯作物研究所」の所長だったので、事情を説明して理解をしてもらい、やっと就職をする事が出来た。いくら友人の父が上司だとしても業務に関しては別で、社会人になってからも精神的なプレッシャーは大きく、何度も自分に負けそうになったと話してくれた。それを乗り越えて来られたのも、自分を育ててくれた母の存在があったからなのだろう。
彼とは言葉の問題があるので、いつも私の側には通訳をしてくれる馮さんがいて、三人で会話をする日々だった。時々、馮さんもわからない日本語が出てくると困ってしまい、辞書で調べながらの会話になることもあり、申し訳なかった。
私は真剣なまなざしに心を打たれ、暇な時に日本語の基礎を教えた。彼は、記憶力が良いのか、一度教えた単語を忘れるような事はなかった。心の底から彼は日本という国に興味を持っていたのだろう。彼の休日は土曜と日曜日だったので、週末になるとホテルに顔を出し、私が忙しくしていると、仕事を手伝ってくれるようになった。
そ して、ある週末の土曜日のことだった。客室は満室のため、館内は客の笑い声や温泉客の楽しそうな会話の声が響き渡っていた。夜の8時頃だったが、玄関先に数台のオートバイに乗った若者たちがやってきた。彼等は温泉に入る客だった。しかし、その日は上海から観光に来たお客も多かったので、もしも、この若者たちとトラブルにでもなれば大変だと心配になった。フロントのカウンターで入場料を支払う時も、女子社員をからかったりしてふざけていたので、私は近くで暫く様子を見ていた。彼等の会話を聞いていると、何だかお酒を飲んできたように見えた。案の定、側へ近づくと、やはりお酒の臭いがプンプンしていた。お酒を飲んで温泉に入り、もし心臓麻痺でも起こしたら本当に大変な事になるので、若者たちを少し待たせて女子社員に注意をした私は、彼等に今日の温泉浴を断るよう指示をした。
社員が彼等に、その事を告げた瞬間だった。
「もう、支払いが済んでいるのに断るなんて納得がいかない!」
と怒鳴りだした。私の中国語では説明できないので
「馮さん、お願いだから彼等を上手に帰して下さい」
と頼んだ。彼女が、いくら説明しても理解が出来ないのか大声で抗議をしていたので、保安係りを呼んだ。しかし、こちらの言う事に対して納得をしてくれなかった。彼等の要求は、温泉浴をさせてくれないのであれば、支払った料金の2倍の保証をしてほしいと言うことだった。いくら政府の規定だと説明をしても動こうとしなかった。見かねた私は保安係りに
「警察を呼びなさい」
と言った。保安係りは彼等と同じ少数民族なので、警察を呼ぶことに対して抵抗があったようだった。だから、なかなか警察に電話を掛けようとしなかったので、
「掛けたくないなら私が掛けます!」
と、彼等のいる目の前で警察に通報をした。電話に出た警察官は、私の中国語は分からないようなので、直ぐ馮さんに替わってもらったが、
「民事ですからこの問題は関与ができません」
と、あしらわれた。馮さんは、相手が少数民族だし、お酒で酔っているのが怖くて、強く言う事が出来ない。困り果てていた時、救いの神、阿浪が来てくれた。
この状態を見て彼は、若者たちを落ち着かせるためポケットの中からタバコを取り出し、彼等に一本ずつ差し出し、そして、一人ずつタバコに火をつけた。おまけに彼等に笑顔を見せて落ち着かせていた。
阿浪は彼等の話を聞いて、笑顔を振りまきながら会話をしていた。それを見た私はとても驚いた。あんなに無口な阿浪が、笑顔で見知らぬ彼等と楽しそうに話しているのだから、不思議でならなかった。先ほどまで大声で怒鳴っていた彼等も静かになり、まるでペットの犬がご主人様の帰りを喜んでいるかのように見えた。阿浪が来てから15分ほどで、彼等は払い戻したお金を手に帰って行ったのだった。もしも阿浪が来てくれなかったら、どうなっていたのだろう。女が一人でホテルを管理をする事の大変さをつくづく痛感した私だった。
今回の事で考えさせられたのは、「私には安心して任せられる部下がいない」ということだった。いくら馮さんが海南人でも、女性なのでこの日のような問題が生じた場合は限界がある。「私の立場を理解して信頼できる部下を捜さなければ」と、真剣に思った。政府との間でもお互い理解が出来ない時には、感情的になる危険も考えなければならない。しかし、阿浪のように将来性のある人材は、この田舎のホテルで働いてほしいとは言えない。
こんな悩みを抱えたまま、月日だけが流れて行った。そんな数々の問題を、少しずつ解決してくれたのは阿浪だった。やがて、海南島での生活がスムーズに運ぶ糸口が見えてきた。そして、社員たちも時々訪れる阿浪を慕ってくれるようになり、彼自身もこのホテルの事や私の身辺を心配して、仕事が終了してから、毎日のように来てくれるようになった。阿浪が来てくれるようになってからの私は、仕事にも楽しさを感じるようになった。そして、心にも少しゆとりが出来た私は、ホテル管理に意欲が出てきたのだった。