創作》私が手放したもの
その日は薄曇りの空だった。
けだるい朝、外に出るのも億劫。
しかし、行かなければ、社会的な信頼を失うだろう。
その日必要な書類を持っているのは私だけなのだから。
原付きで片道30分。
いつもの道だ。
通いなれた、なだらかな下り坂。
緩やかなカーブに合わせてハンドルをきっていた。
つもりだった。
タイヤは道に沿って大きなカーブを描くガードレールを目指していた。
近付いてくるガードレールの凹みまで、数えられるくらい、緩やかに時間が流れた。
気付いた瞬間にハンドルをきっていれば、避けられる距離だった。
しかし、私はハンドルから手を放した。
真っ白な世界に置き去られた、そんな感覚。
その瞬間、私の上にのしかかる物全てから、開放されそうだったから。
自殺する人は、こんな安らぎを求めているのかもしれない。
苦痛の音が響く世界は常に進む。
そんな世界に置き去られるのが、不安で、不安で。
実際に取り残されると、あまりにも平穏で、それは逃れるのも歯痒い、甘美。
ベッドの上で目覚めると、世界が始まっていて、あの安らかな世界が恋しくて、さめざめと泣いた。
死にたかったわけではない。
生きてることが嬉しかったわけではない。
ただただ、恋しかったのだ。
刹那に垣間見た、安らぎの世界が。
手放したのは、どっちだ。
手放されたのは、どっちだ。
original post:http://novel.ark-under.net/short/ss/77
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