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責任✍️

責任は全て自分にある。


私はながらく、責任という言葉に
誤解があった。


ながらく、責任という言葉に
無意味な重石のイメージを貼り付けてた


責任=重責、死、償い、ギロチン
みたいなイメージだった。



だから、責任が自分に来ないように
人の顔色を見、人の傘下に入り
いつも矢がこっちに向いてこないように
可もなく不可もなくな対応で
ビクビクしっぱなし。



だけど、どうやら違った。


自分の責任は自分のもので
人の責任は人のもので奪えないものだ



自分の責任は自分にある方が
いつからでもどんな時でも
自分次第でやり直しがきくということだ。


開き直るわけではない。
行動に対する反省もその都度する。


だけど、自分の存在価値と
責任を担うということは
セットではない。



何をやらかしてしまっても
自分自身に欺いた反省は自分にするもので
人から許されるかどうかに
奮起にならなくても己次第ということだから。



人から許されるように
人に死に匹敵したものを持って償うという意味では決してなかったのだ。



そう思うと、
どんなに人から傷付けられても
人に失礼なことされようとも
私の世界では全ては私の責任なのだから
自分自身で変えていけるのだ。


もし、人から傷付けられても
人に失礼なことされようとも
人に責任があるなら


いつも、相手次第なわけで。


相手が自分の思い通りにしてくれないと
気分がよくなれないじゃない。


人を変えようと奮起になって
人に媚びへつらって
人の顔色見て、もう傷付けないでねって
人に言ったとこで


そんなふうに人をコントロールし続けなきゃ
ダメなんて、それこそ持たない。



自分に責任があるのだから
自分が決めていい。


そう思うと気分がいい。


自由を感じるし、
どんなことがあっても大丈夫だと思える。


そして、自分自身への責任は
自分自身がとらない選択をする自由もあって
自分の責任すら人に責任を擦りつけることも可能だ。(実際には擦りつけれたと思い込むだけだが)


でも、その生き方をしてる限りは
自分の人生なのに
自分自身では生きられないのだ。


人は自分自身で在れることでしか
自由を感じられないのに。


” 安全を得るために自由を放棄する者は
そのどちらも得られないし得るに値しない ”





常に、人が決めた
自身が納得いかない人生を歩んでしまう
人生が、自分のものにならないのだ。



あなたは間違っていると人から責められようとも
常に誰かから見たら間違っている。



正解、不正解もどこにもない世界で
常に、誰かから見たら正解になるし
誰かから見たら間違っているのだ


自分の行いは、自分がいちばんよく見てる


人を欺けても
自分のことは欺けられないように出来ている


人から逃げれても
自分からは逃げられないように出来ている



そういう意味でも
自分の人生は
常に自分のもので
そこからは逃げられないのだから。



責任は自分にある


そう思えて、
そう出来て、
そう生きていけたら



それだけで、
人生は色んな色を見せてくれるだろう。



全ては自分自身なのだから
本当は恐れることは何もない。


自分のことは
自分でいつでも、いつからでも
決められる。



私は、自分の人生、自分自身への責任を
取って生きていきたい。


(2023.6.23)

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