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避けていたもの。✍️


そういえば、
こーゆうことって何度もあったな。とか、

なんで毎回こうなるんだよ!!と
思わず相手に怒りをぶつけたくなる出来事

相手にわかって欲しいのに
わかってくれないとか

相手に変わって欲しいのに
変わってくれないとか

相手に気付いて欲しいのに
気付いてくれないとか

現実に起こった出来事に張り付いて

なんでなんでって思いながら
同じ対応、対処をする。


そりゃ、同じ対応、対処をしていたら
同じ結果を生むのは当たり前だろと
最近ハッとした。

パパとの一件にしても
この度の入院の出来事が起きた時
今まで何度も何度もあったけど
それはパパの現実として捉えていて
自分事として見れてなかった。

パパが変わってくれたら
パパだって楽になるのに…って

楽になってほしくても
お酒ばかりを飲むパパ。

日々のストレスや心内には、悲しみや虚しさや怒りなんかもきっと抱えているし
寄り添う言葉をかけながらも
あーだこーだパパにお酒を控えるようにと説得するようなことを今まで言ってきてた。

それは、パパのためだと言いながら
結局自分の感覚からの逃げだった。

パパの気持ちに寄り添って
一時の『頑張ってきたもんね』『好きなことやって生きよう』とかの言葉を投げて
パパに安心を与えてたつもりだったけど
それで『そうだね』って言われたりして自分も一時の安心を得れたと思っていたけど、
私が感じたくない自分の感覚から逃げるために選んでいたその行為は、自分が感じたくない感覚から逃げるための、薄っぺらい甘い粉砂糖(毒)を与えてるのと同じだった。

本当のわたしが
私に気付いてと言っていて

でも、それを味わいたくないから

わかってるって、頑張ってきたもんねと
甘い砂糖をふりかける。
これからは頑張っていこうと言いながら
気付かなきゃいけないとこに蓋をする。

逃げるために。誤魔化すために。


パパから返ってくる言葉に

そうじゃないんだよ
なんでわからないんだよって

パパに対して思ってたのは

パパに対してじゃなくて
わたしが私に対して思ってたんだ。


気付いて欲しいのも
わかって欲しいのも
命を大切にして!ってメッセージも
わたしが私に対して思ってたことだったんだ。

相手を護っているつもりでも
自分を間違った方に護っているだけだった。

私の見たくない側面を
見なくてよくなる護り方。

自分の間違った思い込みによって
作られた正義。


この場合は、こうするべきでしょ?
この場合は、当たり前にこうだよね!
この場合は、こうして当然よね!

その裏には


” だってそうしないと愛されない ”
” だってそうしないと価値がない ”
” だってそうしないと嫌われる ”
” だってそうしないと最低な人になる ”
” だってそうしないとハネにされる ”
” だってそうしないと独りになる ”

” 頼られたら助けなきゃいけない ”
” 人には優しくしなきゃいけない ”
” 寄り添ってあげなきゃいけない ”
” 人の気持ちを理解しなきゃいけない ”
” 冷たい反応をする人は最低な人間 ”
” 間違ってはいけない ”
” 辛がってる人や、自分を否定してる人に対してそんなことないよとか、慰める言葉をかけてあげなきゃいけない ”

これ全部、間違った思い込みだ。


私がその瞬間、自分の本音に従うことは
自分がその時に取るべく役割りのために思わされたものであり、それは人のためにもなる。

それを自分の保身からエゴからの我慢をして、一見人のためのように思える行動は
自分の本音を蔑ろにした行動が前提になるから、結果、人も蔑ろにした結果に繋がる。

だれのためにもならないんだってことを
この出来事で知った。


変わって欲しいとか
わかって欲しいのは
パパにでもなく

パパを一時的にコントロールしたところで
私が変わっていないなら
常に外側をコントロールするしかなくなる。
それか、自分を押し殺し続けたり、偽り続けなきゃいけなくなるかのどちらかだ。

でもそのどちらもし続けることは不可能。


私が今回、パパの入院の件で避けてたのは
本音からの行動をすることで自分が感じるだろう罪悪感から逃げるためだった。

本音は
「あぁ、またか」
「なんで毎回毎回同じこと繰り返すの」
「ごめんねってその場しのぎばっかりでうんざりする」
「もう何度目?」
「やりたいようにやってんなら自分でケツふけよ」
「もう嫌」
「私はあなたの慰め役じゃない」

そう思ってるのに

” 優しい言葉の一つや二つかけてあげなきゃ、パパが悲しむんじゃないか。傷付けるんじゃないか。

” パパの気持ちもわかってあげなきゃ

” こんな対応したら私は最低な人になるんじゃないか

” パパのとどめを刺すことになって、取り返しのつかないことになったらどうしよう


自分の本音を優先することは
パパを見捨てることになるんじゃないか

そうなった時に感じる罪悪感や、今まで育ててくれて助けてくれている父親を見放すことになった時に感じる罪悪感、自分は最低な奴だという自己否定
取り返しのつかないことになってパパを失ってしまう恐れや
わかってあげられない、助けてあげることも出来ない、そう思った時に感じる無力感

そこから私は逃げてたんだ。


それで
感じてみようと思って目を閉じたら

・ごめんなさい
・そばにいて
・こんな私でごめんなさい
・まだいなくならないで

が出てきて泣けた。


いつもの私のパターンは
表面的には優しい言葉をかけて励ましたり
そうすることによって、相手が
納得してくれたりして、そんな相手の姿を見て満足してた。

それで わかってくれてよかった
これからは変わってくれるはずと
一時の安心感に置き換えてた。

でも今回は、この現実を造っているのが私自身なら、いつもの行動じゃない反対の行動をとらないと何も変わらないと思った。

だから、苦しい思いや、自分が感じてしまうだろう罪悪感も受け入れる覚悟で
突き放す選択をしました。

パパのためじゃなくて
わたしを救うために。
もうわたし自身から逃げないために。
いつまでも自分が感じたくない感覚から逃げて誤魔化すのをやめるために。

わたしの存在する価値は
誰かの役に立つことでも
誰かの慰め役に立って表向きに優しい人という評価を得るためでもない。

わたしの存在価値は
何かをしたからとか、何かが出来る出来ない関係なく、ただ自分自身で在ることだけだ。

そう、存在しているだけで既にもう価値があるのだから。

付け加えなくていい。
取り付けなくていい。

誰かの評価を得るために生きなくていい。
愛されようと顔色伺って、人の役に立とうとしなくていい。

そのままの姿で
ありのままの姿で
その瞬間、本音で存在するだけだ。

そうなれないのは、
不要なものをたくさん抱えている証拠で、
自分が ” こうするべき ” という思い込みに
自分を閉じ込めている証拠。

不要なものがなんなのかを知ること。
何が不要なのかがわかった時、初めて何が必要なのかもわかる。

私には勇気が必要だ。


本音で寄り添いたい時に寄り添うのが
本来の在り方。

本音で力になりたい時になるのが
本来の在り方。

もう、

役に立たなきゃ価値がない私や
優しくしないと価値がない私や
もう嫌だ!を言ったら相手を傷つけるという間違った思い込みはいらないんだ。


これらは、過去の私には必要で
守ってくれる鎧にはなっていたけど
もうこれからは重い。


私は人の期待に応えるために生きるのをやめる。

自分を傷つけれるのも
自分を救えるのも
自分を守れるのも
自分を愛せるのも

本来は、全て自分にしか出来ないのだから。


(2023.11.22)

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