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モヤモヤの正体✍️


モヤモヤさん。

それは、突然ふらっとやってくる。

現実に何か嫌なことがあったとか
何かがあったわけではないのに
長年、定期的にやってきていた。

でも、それがやってきたと思ったら
無意識にそれを感じないようにして
何かをやることで紛らわしてきてたなぁ。

今思うと、長年。

たぶんそれは幼少期からあって
それを感じると、どう対処していいかわからない
得体の知れない霧ががったような
掴めそうで掴めない
モヤモヤ感がだった。

言葉にするのも難しくて
表現するには、モヤモヤするの一言で精一杯。


その度に、
私は寂しいのかなぁとか
私は何が辛いんだろうとか
そうは思ってきたけど
よくわからなかったんだ。


何かあったわけではないのに
それは突然に、定期的に訪れる。

心をその感覚が
じわっと支配してくるのだ。


ここ数日(満月の次の日)から
またそれがやってきていて

35年生きて来て、何度も体感してるから
最初は「あぁ、またか」とげんなりした。

数日はまた今までと同じように
何かをすることで紛らわしてた。


だけど、年々この感覚も1日や2日で
どこかに行ってくれなくなっていて
紛らわし続けるのも限界になりつつあった。


私の中で、この何度も訪れる感覚は
なんなんだろうと思っていたけど
今日ハッキリ掴めたように思う。


それは、「虚無感」だった。


小さい頃から私は
” なぜ生きてるのか ”
” なんで私はここにいるの ”
” 私っていったいなんなんだろう ”

そんなことを考える子でした。


大人になってからも漠然とそれはあって
友達や恋人にも話したことはあったけど
それを明確にしたことはなかった。

だけど、今思えば

何かをやろうと意気込んでやってみるものの
どこかに
” こんなことして何になるの ” とか
” 意味ない ” とか
” 私のことなんて誰も興味ない ” とか

そんな気持ちは常にあって。

そう思ってもわざわざ
それに浸ることも、自分にそんな気持ちがあるってことも、自分で見ないようにしてたように思う。

だから、何かをしても
本当の意味での満足感とか、やりがいとか
充足感ってものもあまり感じられなくて

いつまでこれ続けるの
続けてやっても意味ないじゃんって

続けることにも意欲が見いだせなかった。


だから、対象となるものに
いつも理由をつけて
壊したり、辞めたり、関係を切ってみたり
逃げたり、何事もなかったかのようにしてた。


突然にふわっと湧き出てくる
私の中に同居している虚無感。


思い返せば、幼少期から
物事を ” どうせ意味ない ” って
そんなふうに見てたように思う。



過去を振り返ってみると
お母さんが突然家に帰ってこなくなったのが
小学校1年生になったばかりの5-6歳で。
まだなにもわからない年頃のある日、突然
父と兄姉と4人での生活が始まった。

お母さんと過ごしたことの最後に記憶してるのは
ピザを置いてったきり
帰ってこなくなったこと。


当時、お父さんにも
なぜ母が帰ってこないのか聞ける雰囲気ではなくて
寂しいだとか、ママに連絡してよとか
泣きわめいたり、悲しい感情も出せなかった。
そのまま何事もなかったかのように
生活は進んでいく。


そんな毎日の中で、
数日したら戻ってきてくれると思ってた小さい頃の私は、2階の部屋から母の車が戻ってきてるか確認するのが日課になって、

一度、母の車があった日があって大喜びする思いをした記憶があるけど、母が帰ってきていたその日のことも、その後の数日間に何があったかも
今となっては思い出せない。


ただ、その時
何かを体験し、

母が帰ってこないならなんの意味もないって
思ったんだと思う。



どこかで見た。

全ての感情は、母に繋がっていると。


それを感じたいから
大人になった今でも
それを感じきるために物事は起こると。


確かに、そんな一面もあるんだろうなと
今は思える。



突然ふらっとやってくる虚無感を
私は今まで感じないようにしてきた。

感じてしまったら、それこそ本当に
自分の存在価値がなくなってしまうようで
自分がココに在ること
そのものがなくなってしまうような気がしていたからだと思う。


人の役に立ってなきゃ存在しちゃダメだと思う自分や
いつも迷惑ばかりかけてしまって
人のお荷物のような自分は許されないと思う自分や
人になにももたらさないなら自分には価値がないと思う自分。

必死に人の顔色を見て
何か少しでも役に立たないとと必死に
家事をしていた小学生時代。

お母さんが帰ってくるまで頑張ろうと
自分に言い聞かせて、
頑張ってたらお母さんが帰ってきてくれると
信じてたんだと思う。


だけど、
やってもやっても人の役に立てたと思えない自分
迷惑ばかりかけお荷物になってしまうような自分
甘えてばかりで人に何ももたらせられないと思ってしまう自分

そんな自分をいつも自分で裁いていたし

こんな自分じゃダメだ
もっと頑張らないとと

そうやって、必死にやっていた。

それでもお母さんは帰ってこない。
だから
” お母さんが帰ってこないなら何の意味もない ” って
思い込んだのかもしれない。


その時に感じるはずだった虚無感を
私はそこに置き去りにしたまま
今の今まで走ってきたのかもしれない。

それを感じてしまったら
それこそもうこの世に居れないんじゃないかと。

だから大人になった今でも
誰でもいいから必要とされることに価値を置いて
何かを頑張ることで
ひと時何かを得られたような気になって
虚無感を感じることから逃げていたのかもしれない。


必死だったのかもしれない。


でも本当は
人の役に立てなくても愛されたくて
お荷物のような自分でも、
ここにいていいよって言われたくて
人に何かをもたらすことが出来なくても
存在してていいよって許されたくて
わたしが存在してる意味が
きっとどこかにあると思いたくて


だから

長年、ずっとそれが原動力になって
終わりのない回転車の中
ひたすら漕いで漕いで漕ぎ続けてたのかもしれない。
わけもわからず。

私はそれと同時に、人に
言われるがままをやってきた人生だとも思った。

それを選んでいたのは自分だし
そうやって人に言われることをそのまましていた方が
少なからずその人から必要とされるし
存在を認めてもらえるから。


ひと時は、必要とされた安心感とか
存在してていいのかもと思えたり
このために私はここにいるんだとか
そういう正義感も持てた。

だけど、それはずっとは続かなくて。


心にぽっかりあいた
なにもない感覚の虚しさは

恋愛をしても
大切なはずの家族と居ても
友達と居ても
本当の意味で満たされることはなかった。

娯楽に走ってもそれは埋まらなかった。


そよ風のようにふらっと訪れる虚無感を
長年、気付かないフリをして
紛らわす為の仕事、
紛らわす為の彼氏、
紛らわす為の友達との時間を
過ごしてたように思う。


思えばSNSで発信することも
友達とワイワイ過ごす時間も
彼氏と過ごす時間も
一人で趣味をやる時間も

根底にあったのは
” こんなことやったってなんの意味があるの ” って
思いがあった。

いつかは別れがくるのに。
いつかは終わるのに。
いつかは今のもの全てなくなるのに。


そうやって
別れや終わりや無くなるものに
深入りするのを辞めてしまったように思う。

無くなった時に感じる
虚しさを感じたくなかったんだ。
それは、突然母が居なくなって
大切な母を急に失って
わたしが頑張れば母は帰ってきてくれると
思い込んでたくさん我慢して
たくさん頑張って
たくさん信じて待ったけど
帰ってこなかったことで


” なにやっても意味ない ” って思ったんだろうな。



こんな感情が自分にあったことは
薄々気付いてる自分もいた。

報われない虚しさ
頑張っても届かない想い
誰にも埋めてもらえない心の隙間。


今日ハッキリとそれがわかった。


とめどなく溢れて止まらない涙。


そっか。

わたしがずっと置き去りにしてた感情だ。




虚しさ

今日はこの感情に寄り添ってみようと思う。



(2023.7.10)

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