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勝手な解釈✍️

50歳過ぎても結婚せず
実家に居座り、ご飯や洗濯をお母さんにしてもらっている人が居るという話を聞いた。

その話を持ってきた人は
その50歳の人が信じられないとでもいわんばかりに、50歳のその人に批判的な目を向けた話し方をしていた。

たぶん、それが一般的な反応だろう。

50歳にもなって、
お母さんにやってもらうことか?
本人はどう感じてるんだ?
親に申し訳ないと思わないのか?
いい年こいて気持ち悪い大人だな
成長してないのかよ

とでも言わんばかりに、そういう勝手なレッテルを貼って解釈してしまうこともあるだろう。

私も、きっと前まではそうだった。

でも今回この話を聞いた時
違う反応が出てきたことに少し自分でも驚いた。

50歳でお母さんにしてもらってる彼が
社会不適合者で、お母さんに迷惑をかけている加害者かのような解釈に違和感を覚えた。

確かに、ひとつの視点ではそうなる。

年老いた母に全てを委ね、やらせて、
負担をかけ続けている50歳という見方をすればそうなる。

でも、もしかすると
その人は自立を母親によって巾かれ続けた人生かもしれないという視点で行くと
全く違う背景が見えてくる。

そして可能性はたくさんあって
もしかしたら、もっと昔、実家から出て自立をしようと試みてみたかもしれない。
その際に、もしかしたら家族から応援されず後ろ髪を引かれるような言葉や状況があったかもしれないし、もしくは、
実家から出てた時代もあったけれど、その時の彼に挫折するような出来事があって
その時に自信を失った過去があるかもしれない。

それが原因となり、今に至るのかもしれないと思ったら、50過ぎても自立出来てないその人を批判的に見るんじゃなくて
慈悲の心で見てた自分がいた。

生きてると、年齢問わず様々な背景がある。いろんな状況に見舞われる。
それは、みんな同じ。

でもその背景や状況は、人それぞれで
その時に思う気持ちや感じる感覚も様々で。

自分がそうじゃないからといって
他人もそうじゃないかと思い込むことは
また別問題な話で、その人にしかわからない思いや感覚があるという事実。

常識論とか、道徳観とか、倫理観とか
そういう目線で見ても
そんな範疇にハマらないケースだってこの世界にはたくさんあって、

だからこそ、人が本来持つ想像力というものがあるんだと思った。

それを使って、相手の思いに馳せてみることは大切なんじゃないか。

自分が出来ているからと、出来てない人を嘲笑ったり、レッテル貼ってみたり
その人自身を自分の都合のいいように決めつけて、人を下げて自分をあげる手立てに使ったり。

それは、単に、想像力の欠如であったりもする。

人は、目で確認出来ることを良いとか悪いと判断を起こしやすい。

例えば、たくさん子供が居て、時間にも余裕が持てずバタバタ一日を過ごしている人や

仕事に追われ、やる事がたくさんある人が大変な人だという慈悲を得やすい。

その反対に、
時間にも余裕があって、仕事もしてなくて何でも人にやってもらってる人はただ甘えているだけでダメな人だという批判を得やすい。

でも、そこには
目に見えないものが確かに存在していて

時間に追われ、バタバタしてることに幸せを感じていてしたくてやっている場合もあるから、一概に大変ばかりではないということ。そこには、充実感や達成感もあって心の満足感は充分に得られているかもしれない。

一方で、時間にも余裕があって仕事もしていないし、誰かに何かをいつもやってもらえる人は一見、楽そうに思えるが
その裏で、心にはいつも不満足や罪悪感、無力感や無価値感を抱えているかもしれない。

そう思うと、本当に今慈悲が必要な人はどっちだろうという視点にもなる。

人が本当にしんどいのは
心が感じている負担であり、
現実的にやることがたくさんある人ではないということ。

心に負担があるまま
行動をして一時的に紛らわす事が出来ても
自分の思い方や意識の問題は
紛らわすことや、無理矢理力の限り行動したからといって解決しない。


幸せ感というものは
物理的なものはあまり関係がないこと。

物理的なことは、あくまでも手段であって
目的と原因は内側にあるということ。

そう思ったら

そもそも、50歳でお母さんになんでもやってもらっている彼がそれで幸せなら、他人が批判する筋合いはない。

レッテルを貼ってみる限り
そんな物の見方をし続ける限り、自分自身の成長もそこで止まっているような気もする。

可哀想な人も
最低な人も
最悪な人も
加害者も
被害者も

そういうふうに見ている自分が居るだけで
可哀想な人や最低な人や最悪な人や加害者や被害者が居るわけではないんだと思った。


(2023.12.13)



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