見出し画像

SCOT 「からたち日記」由来

サマーシーズンが今年も開幕。自分は今週末に伺う予定のため、急いで予習・観劇準備の体制を整えている。

『「からたち日記」由来』
演出:鈴木忠志 作:鹿沢信夫 出演:SCOT

島倉千代子が唄ってヒットした歌謡曲「からたち日記」の出自はどこにあるのか……。大正時代の華族の令嬢と車夫の心中事件に材をとった、老いた講釈師たちによる悲恋の物語。流行歌に想いを託すほかなかった老女の心情が、チンドン太鼓やクラリネットの調べとともに語られる。

https://www.scot-suzukicompany.com/sss/2024/program.html#anchor-3

SCOT作品はソフト化されているものが少ないのだが、こちらの作品はYoutubeで鑑賞が可能。コロナ禍の気変わりなのか、2年くらい前からポツポツと公開されるようになっているのだけど、そろそろ店じまいモードなんですかね…(と思うと悲しい)。

こちらは、2022年3月19日上演@利賀大山房。出演は、内藤千恵子、加藤雅治、塩原充知。


「からたち日記」とは

1958年に発売された島倉千代子によるヒット曲(Spotifyにも)。

歌詞を読んでみる。こころで好きと叫んでも口では言えず、幸せになろうねと言ってもらったものの口づけさえせず、霧の中に消えていってしまったあの人…。という具合で一途な想いを歌った曲である。

そもそも、からたちとは?

からたち

カラタチとは唐橘で、「中国の橘」の意味です。 この種は柑橘類の中では最も寒さに強く、東北地方まで植栽されており、野生化している個体もみられます。北原白秋作詞の「カラタチの花」は有名で、植物は知らなくても私たちの生活の中に入り込んでいる種でもあります。

この種の枝には稜があり、よく枝分かれして掌状の3枚の葉がつきます。また、葉の付け根から扁平な鋭い3~4cmの刺状の枝が出ています。この性質を利用して侵入者を防ぐ生け垣に用いられることもあります。この種は柑橘類との相性がよいことから、ウンシュウミカンをはじめとして柑橘類の接ぎ木の台木として利用されています。果実は直径3~5cmで、9月から11月にかけて黄色く熟します。実の表面に毛があることが他の柑橘類とは異なる点ですが、皮は硬く、なかなか剥くことができません。また、果汁は酸味が強く食べられません。この実は果実酒や風呂に入れて香りを楽しむといった利用がされています。

農工大の樹

寒さに強く、皮が硬い。そのカラタチの特徴は、辛さに耐え、貞節でもある….というような理想化されたかつての女性イメージ像に重ね合わせられていた側面もきっとあったのだろう。

ともかく、その「からたち日記」誕生の知られざる由来について、スキャンダルな真相がその奥にあるとするのがこの舞台の元となった鹿沢信夫作「『からたち日記』由来」である。

「からたち日記」由来の由来

鈴木先生の演出ノートから引用する。

流行歌「からたち日記」は昭和の時代、第二次大戦終了後に日本の大衆に愛され唄われたのですが、この歌詞自体は昭和のものではなく、大戦前の大正時代に書かれていた、それがこの講談の作者の主張するところです。しかもそれは、実在の一人の女性によって、書かれていたというのです。

この講談によれば、この歌詞の作者は、日本の天皇に政治上のアドヴァイスをする貴族を中心とした合議機関(枢密院)の副議長、芳川顕正伯爵の娘、芳川鎌子だというのです。

鎌子は、貴族の学校とされていた学習院を卒業、結婚して一人の子供を生んだ。しかし夫との家庭生活に不満を感じた彼女は、芳川家の専属の運転手と恋愛関係になってしまう。そして二人は列車に飛び込み死のうとするのだが、芳川鎌子だけは生き残ってしまう。それが日本社会を揺るがす政治上の大事件になってしまったのです。

芳川鎌子の行為は、天皇陛下を中心にして結束する日本民族を侮辱するものである、すぐに鎌子を死刑にすべきである、これを放置しておけば、日本にもロシアと同じように革命の嵐が到来し、天皇制が打倒されることになるかもしれない、と国会でまで議論されることになりました。

そのために芳川鎌子は、芳川家を除籍され尼になり、信州の山奥の寺でその人生を終えるのです。彼女の死後、彼女の日記帳が発見され、その中にこの流行歌「からたち日記」の歌詞が書かれていた、というように芳川鎌子の人生が講談として独自に創作されています。

この戯曲の作者は鹿沢信夫、鈴木忠志や別役実と同じ学生劇団に所属していた学生運動家、大学卒業後は貧しい人たちのための社会活動に従事していたが肺結核を患う。そのために故郷の秋田県に戻り、病院で長らく療養していましたが、36 歳で亡くなっています。

「からたち日記」由来について

なんだか凄い話だ。

自分はこの事件の存在さえを知らなかったが、調べてみると色々な記事がザクザク。事件が起きた1917年にはマスコミと言われるようなメディアもその時には誕生していて、現在と地続きであるという感覚も強い一方、多様な「女性」のあり方を受容する社会には程遠いこともよく分かる。それは当然、現在も道半ばと言わざるをえないが、だからこそ批判的な態度として戯曲が機能しうるとも言える。

高貴な家柄の女性と雇い人の心中事件はただでさえスキャンダラスだが、大朝に出し抜かれたことで他のマスコミにも火が点き報道合戦が加熱、「千葉心中」という呼称までついて一大センセーションを巻き起こした。

流行語が生まれ(「鎌子式」「鎌子病」「鎌子コンプレックス」「運転手になるのだっけ」「運転手にご注意」など)、小説が書かれ(『伯爵夫人 恋の仇夢』『伯爵夫人 後の仇夢』『小説 生別死別』など)、芝居になり(『千葉心中』『長澤兼子』など)、映画になり(『玉子夫人』)、流行歌ができ(『千葉心中』『伯爵夫人 千葉情死』など)、講談(『千葉情話 浜子夫人』)や浪花節(『鉄道情死 千葉心中」)になり、そのうち浄瑠璃ができるだろうと嘲罵された。

また、平塚らいてう、与謝野晶子、近松秋江、山川菊栄、下田歌子、矢島楫子など、さまざまな知識人が是非論を展開した。

婦人小説大全 第11回「消費される夫人」前編

ここには、近代社会を迎えて新たに発見された女性の苦悩がある。カラタチ的な理想化された女性イメージ・社会からの期待との乖離によるところも大きかったのだろう。

社会から姦婦と罵られようとも、むしろ社会的規範をも超越する愛や幸福の追求を通じてこそ「からたち日記」的世界に到達する。いやむしろ、「からたち日記」的な純粋な愛の世界は、社会的規範の鏡像として立ち上がる。

『「からたち日記」由来』の演出

講談の内容は、とにかく突拍子がない。

 この講談の台本は、枢密院副議長芳川顕正伯爵の娘、鎌子と芳川家のお抱え運転手倉持陸助が相思相愛になり、二人で列車に飛び込む事件、運転手は死に、鎌子は大怪我をしながらも生き延びてしまうという、大正時代に実際に起こった心中未遂事件が下敷きである。その上に、<心で好きとさけんでも、口ではいえず、ただあの人と、小さなかさをかたむけた…>の流行歌「からたち日記」の世界が展開していく。

 しかし、講釈師の口をかりて語られる内容は飛躍だらけ、どこまでがホントウで、どこまでがフィクションなのか分からない。トモカク、ナゼ、「からたち日記」という歌が創り出されたのかが、思わず吹き出してしまうほどに、屁理屈がついて大袈裟に書かれている。例えば、発端はこんな具合である。

 「人間は誰でも、心の片すみに、一冊の「からたち日記」をもっているとは、かの泰西の革命家カール・マルクスでありました。<中略>では何故それが、今まで人々の目や耳に、触れることがなかったのでありましょう。それは「からたち日記」とは他人のために書かれたものではなかったからです。自分のため、ただ自分のひそやかな願いごとのためにのみ、書かれるものだったからです」

 この作者によれば、「からたち日記」の作詞者は西沢爽ではなく、芳川鎌子ということになる。生き延びて尼僧になった芳川鎌子が、信州の山奥で死ぬ直前に書いたものが、死後に発見されたことになっているのである。この台本作者の妄想的なモチーフ=執筆の動機は次のようなことらしい。

 「大正6年、西暦1917年、<行こか戻ろか、オーロラの下を、露西亜は北国、はてしらず…>のロシアに、決然たった一人のますらおがありました。それこそ誰あろう、かのカール・マルクスの弟子、ウラジーミル・イリイッチ・レーニンその人であります。このレーニンはいいました。

 諸君、もはや「からたち日記」を捨てる時が来た。これからの時代は、「からたち日記」のいらない時代になるであろう。なぜなら、一冊の「からたち日記」ももてない時代は、不幸にはちがいないが、「からたち日記」を皆が必要とする時代こそ、なお不幸であるからです」

レーニンの言葉にしたがって、「からたち日記」を捨てたロシア人が、ソ連になって幸せな人生を送ったとは思えないが、ともかくこの作者は日本貴族の娘、芳川鎌子の悲恋に同情しつつも、こんな歌は日本からも早く消えてしまうことを願っていたらしいのである。

https://www.scot-suzukicompany.com/blog/suzuki/2014-03/168/

マルクスやレーニンが「からたち日記」を捨てよと言った…と字義通りに受け止めると理解が難しいが、時代を貫くのが戯曲の力であるから、先の時代にあった大事な価値観を捨てる変革期の話と敷衍して理解すれば、いつの世にもあてはまる話と考えることもできるだろう。

心の片隅に誰もがもっている「からたち日記」。それを捨ててしまうと、そこに行き場を失った思いが残る。

『トロイアの女』では、非運にあった女性の怒りや恨みや悲しみが前面に激しく躍り出てくるが、そういう個人の存在や心情すらも、小さく惨めに感じさせてしまう歴史的時間の非情さを、舞台上に存在させることを演出的には試みている。この視点は『からたち日記由来』でも同じでないことはない。

2014年、『からたち日記由来』初演の演出ノート

鹿沢信夫による『「からたち日記」由来』がどこで読めるのか分からず、そのため、どこからが鈴木さんの創作によるものなのか分からなかったのだが、演出ノートで氏は下記のように解説している。

一軒の古ぼけた家に三人の家族が住んでいる。三人は昔、チンドン屋で生計を立てていたが、今や母親は発狂、息子と伯父はその母親の世話をする毎日である。母親はチンドン屋として活躍していた頃の演奏と、その音楽に合わせて観客に聞かせていた講談『からたち日記由来』を忘れることができず、毎日一度は、狂ったように「からたち日記」という流行歌を歌い、その作品の由来を語りつづける。

実際の戯曲では、ただ一人の講釈師が、昭和の時代に流行った歌「からたち日記」の歌詞が、誰によって書かれたのかを語るだけである。上記のようなシチュエーションと人間関係を舞台上に設定したのは、演出上の私の発想である。

2014年、『からたち日記由来』初演の演出ノート

追記) SCOT SUMMERシーズン2024にて

利賀で観劇。本当に驚いた。よくよく思えばYT映像の収録は2022年の3月。つまり、そこから2年半以上が経過していることになる。今回感じたのは、圧倒的な練度の向上である。

3人の合唱・演奏パートに技術の向上が見られたのはもちろんだが、自分が注目したのは特に内藤さん。この真ん中の役は講談師として話の進行を行いながら鎌子を演じ、時に運転手である陸助さえも演じることとなり、感情の些細な抑揚の応酬を自分でコントロールしなければならない難役だが、この2年半前の時点よりも役を掴んでいるのではないか。感情の強弱や機微は見事だった。加えて内藤さんの特徴とも言うべき歯ぎしりが、配信では不快なノイズとして聞こえていたのだが、現場では異様な迫力をもって届いたのも大きい。

何にせよ、竹森陽一や齊藤真紀だけではない、SCOTの層の厚さを存分に味わえる一作。年末の吉祥寺も楽しみだ。

いいなと思ったら応援しよう!