サマーシーズンが今年も開幕。自分は今週末に伺う予定のため、急いで予習・観劇準備の体制を整えている。
SCOT作品はソフト化されているものが少ないのだが、こちらの作品はYoutubeで鑑賞が可能。コロナ禍の気変わりなのか、2年くらい前からポツポツと公開されるようになっているのだけど、そろそろ店じまいモードなんですかね…(と思うと悲しい)。
こちらは、2022年3月19日上演@利賀大山房。出演は、内藤千恵子、加藤雅治、塩原充知。
「からたち日記」とは
1958年に発売された島倉千代子によるヒット曲(Spotifyにも)。
歌詞を読んでみる。こころで好きと叫んでも口では言えず、幸せになろうねと言ってもらったものの口づけさえせず、霧の中に消えていってしまったあの人…。という具合で一途な想いを歌った曲である。
そもそも、からたちとは?
寒さに強く、皮が硬い。そのカラタチの特徴は、辛さに耐え、貞節でもある….というような理想化されたかつての女性イメージ像に重ね合わせられていた側面もきっとあったのだろう。
ともかく、その「からたち日記」誕生の知られざる由来について、スキャンダルな真相がその奥にあるとするのがこの舞台の元となった鹿沢信夫作「『からたち日記』由来」である。
「からたち日記」由来の由来
鈴木先生の演出ノートから引用する。
なんだか凄い話だ。
自分はこの事件の存在さえを知らなかったが、調べてみると色々な記事がザクザク。事件が起きた1917年にはマスコミと言われるようなメディアもその時には誕生していて、現在と地続きであるという感覚も強い一方、多様な「女性」のあり方を受容する社会には程遠いこともよく分かる。それは当然、現在も道半ばと言わざるをえないが、だからこそ批判的な態度として戯曲が機能しうるとも言える。
ここには、近代社会を迎えて新たに発見された女性の苦悩がある。カラタチ的な理想化された女性イメージ・社会からの期待との乖離によるところも大きかったのだろう。
社会から姦婦と罵られようとも、むしろ社会的規範をも超越する愛や幸福の追求を通じてこそ「からたち日記」的世界に到達する。いやむしろ、「からたち日記」的な純粋な愛の世界は、社会的規範の鏡像として立ち上がる。
『「からたち日記」由来』の演出
講談の内容は、とにかく突拍子がない。
マルクスやレーニンが「からたち日記」を捨てよと言った…と字義通りに受け止めると理解が難しいが、時代を貫くのが戯曲の力であるから、先の時代にあった大事な価値観を捨てる変革期の話と敷衍して理解すれば、いつの世にもあてはまる話と考えることもできるだろう。
心の片隅に誰もがもっている「からたち日記」。それを捨ててしまうと、そこに行き場を失った思いが残る。
鹿沢信夫による『「からたち日記」由来』がどこで読めるのか分からず、そのため、どこからが鈴木さんの創作によるものなのか分からなかったのだが、演出ノートで氏は下記のように解説している。
利賀で観劇。本当に驚いた。よくよく思えばYT映像の収録は2022年の3月。つまり、そこから2年半以上が経過していることになる。今回感じたのは、圧倒的な練度の向上である。
3人の合唱・演奏パートに技術の向上が見られたのはもちろんだが、自分が注目したのは特に内藤さん。この真ん中の役は講談師として話の進行を行いながら鎌子を演じ、時に運転手である陸助さえも演じることとなり、感情の些細な抑揚の応酬を自分でコントロールしなければならない難役だが、この2年半前の時点よりも役を掴んでいるのではないか。感情の強弱や機微は見事だった。加えて内藤さんの特徴とも言うべき歯ぎしりが、配信では不快なノイズとして聞こえていたのだが、現場では異様な迫力をもって届いたのも大きい。
何にせよ、竹森陽一や齊藤真紀だけではない、SCOTの層の厚さを存分に味わえる一作。年末の吉祥寺も楽しみだ。