見出し画像

Projectumï 『寂しさにまつわる宴会』

元宝塚歌劇団の座付き作家で演出家の上田久美子氏が主宰する演劇カンパニー・Projectumï(プロジェクトゥミ)の旗揚げ公演。友人に誘われて現場入りしていたので、その鑑賞記録・その他諸々をまとめておきたい。

会場
入口からして斬新である

宴会?

上田氏がnoteで発信されているので、その開催趣旨をまずは読みたい。

1/24~2/3まで、東京は蒲田にある老舗大銭湯「蒲田温泉」の宴会場にて、体感型演劇を上演します。観客のみなさんは、「宴会」の招待客になって、軽食や飲み物を楽しみながら、作品をご覧いただきます。

ヨーロッパには飲みながらショーやコントを見る「キャバレー」がありますが、その日本版みたいなイメージもあります。それなのに、テーマは、私たちの生きる社会の「寂しさ」。カオスの予感…どうなることやら見当がつきませんが、新感覚の観劇体験になることは確かですので、ぜひ見届けにお越しください。

(中略)

♨︎早めに到着できたらぜひ蒲田温泉自慢の天然温泉「黒湯」に入ってからご参加ください。終演後も24時まで天然温泉に入れます。入湯料もチケット料金に含まれます♨︎

https://note.com/kumiko_ueda/n/n5876680d84ae

事前に予約しておけば名物の釜飯も食べられたようだが、少食のため今回は風呂のみ。会社を早々に抜け出して早風呂、全身をほぐした上で観劇に臨んだ。

いい湯だった

公演&体験概要

芝居は、端役の役者と一人の労働者の物語。彼女たちは存在しているのに人は誰も彼女たちを見ない。寂しさが、至芸を生んでいく神話のような物語でもあります。昭和から続く蒲田温泉の宴会場を、最後には演劇的異空間に変えていくことができるでしょうか。

https://kumikoueda.com/banquet-for-a-void/

芝居としては、そう言われればそうなのだが、芝居を包含する全体の宴会体験が独特で説明が難しい。ここは、読売新聞オンラインにある体験ルポを眺めるのがまず、イメージも掴めてよかろう。

私もビールと唐揚げを買ってくつろいでいると、やがて始まったのは、上田さんが司会するトークと、「余興」と称する大衆演劇の 三河家みかわや諒りょうさんとフランスでも活動する竹中香子さんによる二人芝居。それは、大衆演劇の端役の役者と、その役者への「推し活」に熱を上げる工場で働く女性という「存在しているのに誰からも見られない」2人の寂しさに焦点を当てたもの。交互に披露されるトークと余興に身を委ねるうちに、いつしか「寂しさ」への考察が深められるという、ラフなようで知的に構築された作品でした。

(中略)

公演は「寂しさとは、存在の真ん中にある空っぽの穴」と、上田さんのシリアスな語りで始まりますが、すぐに蛍光色の浴衣姿の3人の踊りが始まって宴会モードに切り替わります。また、「余興」は濃密です。竹中さんが怪演した妖気が漂うほど熱心なファンが、三河家さんが人間味豊かに演じた役者を追い詰めていく展開で、二人の歯切れよいセリフと強い感情表現は心に刺さります。一方、トークは示唆に富んでいて、上田さんが問いかけた「寂しさ」についてのアンケートの回答を考えるうちに自身の孤独に気付かされました。

そして、寂しさが至芸を生む瞬間を描く大詰めは感動的です。三河家さんが美しい日本髪と和服姿で踊る慈愛に満ちた「愛燦燦」を見ていると目頭が熱くなりました。その頃、名物の「温泉釜飯」が炊きあがったようで、おいしそうな香りが宴会場にじわじわと充満。幸せな気分になり、再びビールを買って会場に居残り、近くにいた人々と語り合ってしまいました。

https://www.yomiuri.co.jp/column/spotlight/20250212-OYT8T50033/

トークあり、余興あり、アンケートあり。アンケートの際には立ち上がって身体を動かしたりもするような体感型である。

巧妙なのは、トークをしていてもそれが本当にトークなのか分からなくなる点。このあたりは下記のnoteにも少し書かれているので少し触れておこう。

関根
ここでは「余興」っていうふうに呼ばれてましたけど、余興とか上田さんの語り、レクチャーだけで作品が完結してしまうのではなくて、「宴会」っていう場のフレームを使って、その観客と舞台の関係とか観客同士の関係性まで含めて演出してしまうというところから、大変面白く観ていました。

いくつか面白かったポイントがあるんですけど、まず蒲田温泉の2階の宴会場っていう場の選択が絶妙だったと思うんですね。上演場所を見たときにそう来たかと思ったんですけど、やっぱり普通の劇場でやるのとは全然違う。椅子席がちゃんと用意されてるわけでもないし、靴を脱いで上がってみんな座椅子に座ってみたいな感じで、そういう構造的な違いがまず面白いのと、基本的に演劇って舞台と客席が分離されていて、客席の暗闇の中からその光る舞台上を見つめるっていうのが基本的な形式で、演劇っていうのは基本的には舞台上で行なわれてることを指すわけですよね。それを上田さんは、宴会っていう場に観客を参加させてしまうことで、客席を単純に暗闇の中に埋没させずに、舞台との関係性とか観客同士の関係性みたいなのを常に意識させておくという点が、非常にアイディアとしても、観客として実際に体験した上でも面白く観ていました。

https://editor.note.com/notes/nb71b2a36f4ad/edit/

近年のイマーシブシアターのように、劇場の構造としてステージと客席の権力構造・関係性を破壊するということ、さらには芝居⇔日常の境界自体を融解させることの2点が企てられている、ということを語っているのだろう。

具体例を1つ挙げておこう。noteには「大崎晃伸さんが、出演者なのかスタッフなのか何かわからない不思議な役(?)でご参加です」とも書かれているが、この大崎氏が上田氏がトークしている最中に客席から舞台に近づきファンとして介入する。すると見ている側は、この人は芝居の一部なのか?となると、このトーク自体も芝居なのではないか?と勘ぐり、宴会場が有していたはずの日常性が突如揺らぎだすのだ。

寂しさ

前述のnote「『寂しさにまつわる宴会』を振り返る」にはかなり赤裸々にいろいろ書かれている。個人的にピンとなったやり取りを引いておこう。

関根
物語の筋としては、簡単に言えば推し活に象徴されるような、今もってなお加速過熱し続ける消費社会の構造とか、あるいは人と人との関係さえお金を介さないと成り立たないような、それさえ商品とされてしまうようなグロテスクさみたいなものが断片的な場面で描かれていて、そこで特に凄みのある竹中香子さんの、埋めても埋めても埋まらない穴を抱えたケイコっていう名前の登場人物が出てくる。穴あけっぱなしでは人間は耐えられないから、とりあえず手に届くところにあるものを埋めていくっていう、この着想を深夜のドンキで得られたとおっしゃられてて、なるほどと思いました。

https://note.com/kumiko_ueda/n/n88a8e7ea23e9

上田
これが政治的なことをやる演劇だったら、こんな社会は間違ってるとか主張がありますけど、たぶん私が今やってることというのはそういうのとはちょっと違う。だから推し活じゃない違う生きがいを見つけてみんな畑仕事しようよ、とか言いたいわけではないんです。
感想の中に、宴会の仕掛けが楽しくってウキウキ見てたけど、自分も推し活をしていて、虚しさをそれで埋めているのは確かで、自分もケイコなのかと思うと否定されたようでつらかった、というのがあった。でも私が言いたいのは別に推し活を辞めろということではない。
そもそも存在というものの虚しさみたいなことを私はいつも抱えていて、人生とはそれとどう対処していくかということだと思ってるんだけど、皆さんはどうですか?と聞いてみたかった。なにかそういうことをシェアしてみたいという感じでした。

上田
ただ、作品からはっきり読み取るのは難しいと思うけど、食べても食べてもお腹がいっぱいならない、誰かと関係を結んだり承認してもらってもすぐにその快感が消えちゃってまたなにか刺激を求めていかなきゃいけない感じ、その寂しさというか存在の無意味さ空疎さみたいなものから抜け出すためには、個としての私という外の世界と皮で完全に分離した自分みたいなものではなくて、なにかこの世界の循環の中の一部である自分を意識する必要があると思っていて。その世界というのは、言ってみれば太陽というもののエネルギーによって生み出されてるじゃないですか。私自身も、太陽のエネルギーによっていろんなものが植物になってそれが違う動物になってみたいな循環の中にあるし、呼吸を通じてすべての者たちがお互いに物質を交換して、一つの大きい全体を成してる。

これはむしろ私が夏に城崎でやっていた「プネウマ」というプロジェクトのテーマと近いんですけど、そこら辺を感得していかないと、いくら消費的な人間関係を求めていっても、人間っていうのはそこでは満たされることはなかなかなくて、もうちょっと世界全体あるいは自然の中での自分っていうものを取り戻していく、昔だとまだ感じられたような太陽を中心とした大きな循環と個の間の繋がりを取り戻すっていう感じが、最後の殺しのところのモノローグに実はある。永久のカルマみたいな、求めても求めても満たされずずっと喉が渇き続けてるみたいな輪廻から抜け出したスター、もう誰かに認められたいとか誰かに愛されたいっていうのが一切ない存在として自己完結したスターみたいなものを太陽とたとえたのは、そういうイメージと繋がりがあったんだろうなって、今聞きながらふと思いました。

この最後の部分は、イキウメ前川氏が話している「畏怖」にもつながる感覚のように思われる。自分よりもはるかに大きな何かとのつながりを感じること。新自由主義の元で進んだ個人主義・分断に対する再統合の方向性は、霊的・超自然的でもあるということだろうか。

上田久美子先生

最後に、上田氏について。

上田さんは、宝塚時代は美しいセリフと大胆な演出の舞台で高く評価されましたが、「社会に資する作品を作りたい」「自分の内側にある本当にやりたいことを形にするべき」といった思いから22年に退団。1年間のパリ留学を挟んで、植物の意識の世界に着目した朗読劇「バイオーム」、観客参加型の「呼吸にまつわるトレーニングプールvol.1 オフィーリアの川」という実験的でユニークな作品を作ってきました。

https://www.yomiuri.co.jp/column/spotlight/20250212-OYT8T50033/

上田氏は本公演のトークにて、自らの寂しさを埋めるために性的な喜びを得ればよいのではないかと考え、SEX自慢の友人に一発お願いをして、それはそれで結構な体験だったそうだが穴は埋まらなかった、とか嘘か真か分からない話もしていたが、とても優れた作家&演出家だと感じた。

(「バイオーム」、観たい….。)

とはいえ、「上田久美子」という名前は、宝塚ファンの間ならもはや言わずもがなだろう。2013年に『月雲の皇子・衣通姫伝説より』でデビューを飾って以来、21年の『桜嵐記』に至るまで、約10年にわたって、彼女は鮮烈な作品を発表しつづけ、宝塚にたえず新風を送りつづけてきた。ただ、たしかに読売演劇大賞(2015年、優秀演出家賞)の受賞経験もあるとはいえ、その作品が「宝塚」枠を超え、現代演劇として評価される状況は、十分だったとは言えまい。「宝塚的」な文法とルールに沿って書かれ演出されていながら、たえず「宝塚らしさ」を揺さぶりつづけてしまうこと。そんな作家性をもった彼女が、突如、これからは「宝塚フリー」で作品を発表する、というのだから、これは無視できないニュースである。

https://k-engeki.net/member/article/88/

(桜嵐記は観られる…!)

と思って眺めていると、ウエクミファンがやはりしっかりいるのですね。ついに宝塚への扉が開いてしまいそうだ…。

今年の年末にはSPACでハムレットを手掛けるとのこと。今年もいろいろ楽しみです。


いいなと思ったら応援しよう!