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SCOT 『シラノ・ド・ベルジュラック』
今年のSCOT サマー・シーズン2024で一番楽しみにしている作品。
国際版『シラノ・ド・ベルジュラック』
演出:鈴木忠志 原作:エドモン・ロスタン 出演:SCOT
フランスの戯曲に描かれた男の恋心を、華麗なヴェルディのオペラ「椿姫」の音楽によって彩る、男の心意気の物語。日本人はなぜ「シラノ・ド・ベルジュラック」と「椿姫」の物語を愛したのか。ロクサーヌをロシアの女優が、クリスチャンを中国の俳優が、シラノをSCOTの俳優が演じる競演版。
ヤフオクで偶然に見かけて衝動買いしたDVDに収録されていたので、事前にこちらを鑑賞(本当に買っておいて良かった)。DVD収録は2003年@静岡芸術劇場での上演。初演は1999年なので、再演時の映像だろうか。
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戯曲は手元になく、図書館やどこにも見つからなかったためSCOTに相談した所、送料込み振込にて郵送してくださった。ありがたいことだ。
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加えて、光文社が2008年に出した翻訳でロスタンの原作戯曲も通読。個人的な準備は整った…と思ったが、SCOTは翻訳に岩波の定番訳を採用しているようだ(そりゃそうか)。
「シラノ・ド・ベルジュラック」とは
フランス軍隊に所属し、繊細な詩を綴り、人生観・世界観を多いに語り、剣術の達人であるシラノは、気が強く美しいロクサーヌに恋心を抱いている。しかし、自分の見た目に自信が持てず告白する事が出来ない。その時、ロクサーヌが友人のクリスチャンを慕っている事を知り、美青年ではあるが勘がにぶいクリスチャンの代行で、ロクサーヌへラヴ・レターを書き続ける。そして、とうとう本当の事がロクサーヌへ伝わってしまう…。
こちらは2007年ブロードウェイでの上演時の「シラノ」だが、まあトレイラーを観ても分かる通り、変な話である。
学者で詩人で軍人で、おまけに天下無双の剣客だが美男とは言いかねる大鼻がコンプレックスのシラノ。アホで弱いがとにかくイケメン・クリスチャン。知性を愛する賢いはずの面食い美女・ロクサーヌの三角関係。
17世紀フランスに実在した剣豪作家、シラノ・ド・ベルジュラックを主人公にしたロスタンによるこの戯曲は、シラノ没後242年の1897年に初演。ポルト・サン=マルタン座(Théâtre de la Porte Saint-Martin)の12月28日の初日から500日間パリ中を興奮させたといわれ、以降今日に至るまで、フランスばかりでなく世界各国で繰り返し上演されている。(wikiより要約)
日本でも、幕末から明治へ移る日本を舞台に翻案した『白野弁十郎』が新国劇の沢田正二郎によって初演(1926年)され、大成功。その後、沢田の弟子だった島田正吾の一人芝居へと引き継がれ、島田の死後は、弟子の緒形拳(新国劇出身)がこの作品を上演したという。
余談だが、ポリスのロクサーヌは、
ポリスのリードシンガー、スティングは、1977年11月にフランスのパリにあるナッシュヴィル・クラブでの演奏時に見かけた娼婦に刺激されてこの曲を作曲した。曲の題名はホテルのロビーに掛かっていた古いポスターに載っていた『シラノ・ド・ベルジュラック』の登場人物名から取られている。
ということで、話の内容には関係ないようだ。
鈴木忠志版「シラノ・ド・ベルジュラック」
『シラノ・ド・ベルジュラック』と『椿姫』は、舞台芸術の世界で、日本人に親しまれたフランスが生んだ二大純愛物語と言ってよい。むろん『椿姫』の方は、イタリア人作曲家ヴェルディの手によって、オペラとして広く愛されるようになったものだが、この二つの物語に共通なことは、主人公が普通の社会人とはひと味ちがった境遇を生きていて、その純愛がついに成就されないまま終わることにある。一人は、文武両道に優れながら、醜い顔かたちからくる劣等感の故に、もう一人は、知性と美貌に恵まれながら、娼婦という職業からくる人間関係の故に、共に自由を生きることができなかったところにある。この物語の二人の主人公を、日本人はフランス人と同じように愛しつづけてきた。それは一時代前の日本人が、人間関係において精神的な不自由を感じ、あるいは劣等感に悩まされながら生きていた証なのかもしれない。しかし、実在の人物をモデルにしたと言われるこの物語は、たわいのないおとぎ話のようなところもある。こういう純愛物語を想像し、創造する人間はどういう人であるのか、はたまたその想像し、創造された物語に、想いを寄せる心情とはどんなものであったのか、そんなことを考えながら、今回の『シラノ・ド・ベルジュラック』を演出してみた。
2010年@新国立劇場での上演映像を発見したので置いておく。余談だが、プログラムを見ると、「東京ノート」とかもこの時はやっていたようで、タイムスリップしたい気分になる。
こんな前衛芸術になってしまって「シラノ・ド・ベルジュラック」は本当に「シラノ・ド・ベルジュラック」なのか?と心配したが、たしかに原作戯曲で読んだ通りの話になっていて、しかも戯曲に流れる感情はむしろ読んだときよりもクリアに掴めてしまうのだから不思議。というか、鈴木先生さすがとしか言いようがない。
今回の舞台では、この『シラノ・ド・ベルジュラック』という作品は、どこまでが作家エドモン・ロスタンの体験であり、どこからが想像であるのか、あるいはどれくらいモデルとした実在の人物が演劇的形式の裡で変形されているのか、あれこれ考えて稽古をしているうちに、ロクサアヌとクリスチャンを実在の人物にするのではなく、主人公シラノの幻想として舞台化するのがよいという結論にいたった。そうすれば当然のことながら、この二人の人物と奇妙な三角関係を構成するシラノという人物も、もう一人のシラノという人物の幻想になる。そして、この三角関係を幻想するもう一人のシラノを日本人とするということにしたのである。それがこの舞台の主人公の喬三である。そして、物語はフランス的、音楽はイタリア的、背景や演技は日本的といった組み合わせによって、鈴木式の舞台化を試みてみた。思えば日本人は明治維新以来、西洋文化に憧れすぎたために自らの居場所を見失い、虚しいミスマッチともいうべき文化活動をつづけてきた。しかしそのミスマッチを、もうそろそろ偉大でかけがえのないミスマッチにして、世界共通の財産にしなければならないというのが、舞台芸術家としての私の仕事でもあると思っている。
DVD収録の2003年上演では、ロクサーヌをロシア人女優が演じている。ロシア語と日本語で会話が続けられるため、それがイケメン好きな女性と話はしているものの話が通じていない、恋愛の対象としては見られていないので自分に秘かな想いがあるなんてことは露にも思われず検討の俎上に上がることは万に一つもない、絶対にない。という絶望的な状況につながっていて、うわ!この感じ知ってる!と自分には刺さって仕方がなかったのだが、そのロクサーヌは喬三自身の内なる声でもある。
さらに、今回の2024年上演となる国際版では、クリスチャンを中国人俳優が演じるということで、イケメンすらも抽象概念として内面化しやすくなるだろう。
君が俺を補い、俺が君を補う。君が歩いて行くと、俺はその側で影法師になる。俺の才気が君に乗り移って、君の優姿が俺のになる。
シラノ・ド・ベルジュラック自身が男色だったということまでは考慮しないにしても、自分が持ちえなかった美貌との融合願望がまずここにある。加えて、その美貌との融合によって、初めて自身の才気の真価が見えるというのも狙いだ。さらには、内なる知の迸りが外見をすら凌駕するということ、それこそがこの物語を書いたロスタンの心の深奥にあるはずで、それが「シラノ・ド・ベルジュラック」を愛してきた人々の希求でもあり、その純化が舞台では行われる。
ちなみに、2006年?@万里の長城での再演時はロシア人・中国人・日本人で演じていたようだ。この席危ないとか細かい所まで鈴木さんがチェックされている様子が拝めます。
追記) SCOT SUMMERシーズン2024にて
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ということで、利賀にて観劇。
喬三を竹森さん、クリスチャンをテン・チョン氏。テン・チョンは中国の国立の劇団(中国国家話劇院?)に所属されている…というようなお話を鈴木先生がされていたように思うが、いつ観ても良い役者。背も高く声も通ってハンサムでクリスチャンにぴったりだ。ロクサアヌを演じるのはロシアのナナ・タチシビリ氏。この方は、オレグ・タバコフ氏が芸術監督を務めていたモスクワ芸術座に所属?(これも聞き逃した…)。
実際に見て気付いた/考えさせられたのはまず、鈴木先生がblogにも書かれていた文字言語と音声言語についてである。
フランスの劇作家エドモン・ロスタンの「シラノ・ド・ベルジュラック」という戯曲も、手紙にまつわって引き起こされる人生の有為転変を描いている。この劇の女主人公は14年間も、手紙の文体の素晴らしさに酔わされ、シラノの書いた手紙を実際の恋人が書いた手紙だと思い違いしていた。ここには書き言葉というものが、意図的に他人を騙したり、あるいは思考や気分を一定の方向に誘導することのできる力強い武器だということがよく表現されている。極端に言えば、書き言葉という嘘の力が人間を動かすということである。私も経験したことだが、よく学校の先生が、嘘を書かないで感じたままを書きなさいとかと、文章指導したりすることがあるが、これだと小説や戯曲の存在意義もこの世から消えてしまう。書き言葉を使って見事な嘘をつき、他人を酔わせたり刺激したりしたのが、歴史上の偉大な小説や戯曲だからである。
主人公のシラノは書き言葉を縦横に駆使し、自らの本心は隠して、若い恋人二人を繰る。これほど執拗に書き言葉の使い方と、その力を感じさせようとした戯曲はないと思う。
(中略)
シラノ自らも望んだものだが、記憶された音声言語が、人間関係の虚構を崩壊に導く最終場面は、なんともしれず演劇的な嘘の楽しさを遊んでいる。文字言語にも力があるが、音声言語にも独自の魅力的な存在意味がある、これは演劇人にとってはありがたい考えである。肉声としての音声が、ますます聞きにくくなってきた電子情報社会を生きる我々には、刺激的で懐かしくもある人間存在の考察のドラマだと言ってよい。
文字言語は強力な嘘の装置である。シラノはそれを駆使してロクサアヌを半ば偽るのだが、鈴木先生がトークで仰っていたように、「嘘をつかないと本当のことが伝わらない(by 大江健三郎)」こともシラノにとっては真実なのだ。
クライマックスでは手紙が発話されることを通じて、気持ちが音で分かってしまう、音を聞いたらそれはクリスチャンの気持ちではないことが分かってしまう、という事態となる。ここも正に鈴木先生が仰っている「戯曲は声に出して読みなさい」ということともつながってくる部分で、この演目が実に演劇的であるということがよく分かった。
また、「椿姫」に使われる「La Traviata」はヴェルディによるイタリアの流行歌だが、高級娼婦マルグリットとの叶わなかった「真実の愛」のイメージが重ねられているということを考えながら眺めると、ロクサアヌに奥行きというのか、多重性が加わって見られたようにも思う。
とにかく素晴らしい演目だった。目撃できてただ幸せの一言。演劇は劇場で観なければならない、ということは分かりつつも、世界の文化遺産として再度、高画質映像によるアーカイブ化が望まれる。