チェルフィッチュ『消しゴム山』
6/8@世田谷パブリックシアターで行われたチェルフィッチュの「消しゴム山」東京公演。気づけばもう1ヶ月も経ってしまって、今更だけどメモを残しておく(毎回同じことを言っている…)。
作品概要
作品概要を読んでも、どんな内容かさっぱり分からない。そもそもチェルフィッチュを観るのも初めて。今回は元の戯曲に目を通すようなこともせず、作品概要に目を通したくらいのほぼまっさらな状態にて観劇した。
ちなみに、この「消しゴム山」は2019年が初演。今回はコロナを挟んで4年ぶりの再演ということだったようだ。
演出・舞台美術
観てもらうのが早い。
舞台上には所狭しといろいろなモノが配置され、俳優はその間を縫いながら時にモノを手に取り、移動させ、何か配置の工夫を行っている(毎回アドリブとのこと)。すると、一人がマイクを手に持ち、冷蔵庫が壊れたと話し出す…というのが第1幕。
セノグラフィー(舞台美術)を担当した金氏徹平氏によると、舞台上のモノは毎回同じように並べられている=基本ポジションがあり、その基本ポジションは下記のようなことを考えて決められたそうだ。
散らかっているが整列しているように見える
無限に続いているように見える
俳優を邪魔するように置かれ、必然的にモノと関わってしまう/意識してしまうようにする
それは、まさに
という作品の創作の発端とも関連している。モノというのは普段、人が用を成すために使うもの。言い換えれば、モノは人に仕えている。ということになるが、その主従関係からモノを解放するため、舞台美術がむしろ俳優を邪魔するようになっている。
2019→2024
第1幕では、いつも当たり前に動いていた洗濯機がある日壊れ、それが修理不能だと判明して、当たり前と思っていた日常の不安定さが描かれると同時に、人とモノとの主従関係に揺さぶりがかけられる。第2幕では、公園に突如、見慣れぬ物体(タイムマシン)が現れる。第3幕以降では、その新しいモノにどう対処すべきか政治家が喧々諤々且つ戯画的に議論を繰り広げ、市井では新しいモノに順応する者もいれば、対応できずにおいていかれる者もまたいることが描かれていく。
この「消しゴム山」をつくるきっかけとなったのは、作・演出の岡田利規氏が話しているように陸前高田の堤防工事ということだが、こうしたモノと人の主従関係が逆転することへのとまどいは、例えば今であればAIにも感じる感覚ではないか。
あるいは、スマートホーム化を進め、カーテンが朝になると自動で開くと悦に入って、自転車のロック・自宅の鍵さえもスマホで解錠するようにした挙げ句、スマホの充電が切れたり紛失したりで途方に暮れていた知人を思い出したりもする。
なんと配信しているので、興味のある方は是非。
今後のチェルフィッチュに向けて
いつの時代にも通用する戯曲、というのはまさに古典の条件ではないか。そうしたテキストを手掛ける岡田氏が、東京芸術劇場の芸術監督になられたのだなと得心がいった。
その東京芸術劇場で顔見世興行、あるいは凱旋興行か。9月には「リビングルームのメタモルフォーシス」が予定されているので、できれば劇場に足を運びたいと思う。
しかし、それまでにチェルフィッチュの過去作も振り返っておかねば。代表作「三月の5日間」は配信もされているようだ。