見出し画像

SCOT 『世界の果てからこんにちはⅢ』

“世界の鈴木忠志”率いる劇団SCOT 4年ぶりとなる待望の新作「世界の果てからこんにちはⅢ」の宣伝ポスターを見て、あることに気づいた。こ….これは….イワーノフではないか!!

https://note.com/meguros/n/n1c0f9a2032a9

ということで、『イワーノフ』を観る所から今回の吉祥寺観劇に臨んだわけだが、自分は初日&最終日に参戦。その記録を残しておきたい(予想外の大作となってしまった…)。

SCOT劇団員総出演とのこと

演出ノート

サヨナラ、皆さん。マタ、お会いしましょう。

久し振りにテクストを創って、稽古をしているうちに、妄想がどんどんと広がり、またもや「世界は病院」ではなく、「病院そのもの」のような舞台になってしまった。登場人物全員が車椅子に乗っている、ということは、登場するニホンジン全員が病人だということになる。
 もちろん、この病院を慰問するために訪れたというダンサーのグループ「パンプキン」は、車椅子に乗った病院の人たちではない。どこからとも知れず突如現われ、踊りまくって、いずこへとも知れず去って行くのである。おそらくその帰る地は過疎村だろうと推察はつくが、それも定かではない。観客の皆さんの妄想に頼る以外仕方がないデキ物である。
 今回の舞台は、吉祥寺でのお別れ公演になるかもしれないと思って、劇団員に総出演してもらった。もちろん、私も毎日出演するつもりでいる。
 今までご覧にいれたギリシャ悲劇やシェイクスピア劇とは違って、ユーモアを交えた「日本・病院論」になっているかと思う。観客の皆さんに劇団 SCOTの今まで見知っていない側面を堪能してもらえれば幸いである。
 サヨナラ、吉祥寺。サヨナラ、皆さん。とならなければいいがと思ってはいる。 最後に一言。来年は、私が利賀村で活動を始めて 50年目の記念の年になる。そちらにも来ていただければ、アリガタイ。

会場で配られた演出ノート

『世界の果てからこんにちは』とは何か

論を進めるには、一旦"果てこん"シリーズとは何かを振り返っておくのが良さそうだ。

今回の舞台、『世界の果てからこんにちは』は利賀フェスティバル開催10周年を記念して、これまでの私の作品の中から、日本について考えさせる場面を抜き取り、花火を使ったショウとして構成したものである。長年私の舞台を見てくださった方には、見覚えのある場面が次から次へと出てくるように思われるだろうが、今までとはまったく異なった主題の文脈で出現しているから、また新鮮に感じていただけるかと思う。宗教人の世俗性や日本主義者の民族的妄想、あるいは食べ物をめぐっての些細ではあるが熱狂的な諍いや、歌謡曲に表出される自己満足的でセンチメンタルな抒情など、日本人が陥るバランスを欠いた心性の幾つかを批評的に造形してみた。むろん、それらの心性も時代環境や人間関係の特殊性が生み出す有為転変のものなので、ベケットやシェイクスピアの歴史的時間に対する意識性との対比の中で展開するようにしてある。

 結論的に言えば、現在の我々には日本という言葉から感じる共有のアイデンティティーはないのだということになるが、それは第二次世界大戦を挟んだ日本という国の在り方、その断絶と継続の局面をどう把握するかという努力を意識的にあいまいにしてきた国家的怠慢に起因しているという私の考えによっている。シェイクスピアのマクベスの死ぬ直前の有名な場面のマクべス夫人が亡くなったという報告を、「日本がお亡くなりに」にし、つづいての独白を「日本もいつかは死なねばならなかった。そういう知らせを一度は聞くだろうと思っていた」と改変したのはそのためである。

https://www.scot-suzukicompany.com/works/09/

つまり、シェイクスピアやギリシア悲劇を扱った過去の鈴木作品における各場面を、ベケットや鶴屋南北など偉大な作家・戯曲作家によるテキストと共にコラージュするという『劇的なるものをめぐって』で編み出された手法を用いて、日本論・日本人論として再構成したものが"果てこん"シリーズということになる。

また、80年代以降、鈴木作品は「世界は病院である」という思考にも貫かれているため、登場人物の多くは車椅子に座った病人であり精神に異常をきたしている。死なないと思っていた日本が「お亡くなりに」なったり、その原因である日本の病理が手を変え品を変え演じられる。

世界あるいは地球全体が病院である以上、快癒の希望はないかもしれない。しかし、いったい人間はどういう精神上の病気にかかっているのかを解明することは、それが努力として虚しいことになるとしても、やはり現代を芸術家(創造者)として生きる人間に課せられた責務だと信じている。

https://www.scot-suzukicompany.com/works/01/

『世界の果てからこんにちはⅢ』

では、Ⅲはどのような「日本・病院論」が展開されていたか、鈴木先生のトークも参照しながら振り返っていきたい。

『イワーノフ』の男性たち

まず、この演目は『イワーノフ』を下敷きにしている。『イワーノフ』は、社会改革に燃えた政府の若き役人が生活の中で次第に情熱を失いやがてメランコリーに陥って破滅していく物語。鬱になって、最後は自殺してしまう男の話だ。

「日本の未来」という本に何が書いてあるのか?元気になるようなことは何一つ書かれていないらしい….。https://x.com/SCOT_Toga/status/1871040094305702168

イワーノフを取り巻く男性陣も厳しい現実を前に無力感を抱いており、自らを”落ちこぼれ”であると嘆いている。世界平和にはキリスト1人では足りないので3人いれば良い等と神頼みをしてみたり…中国人所有となってしまった元・公立病院においては、"中国人になりたい"院長のワンさん(果てこん1の院長との対比が面白い)から家賃の督促を受けたりする中で、右翼団体組織の方法をドクトルから学んだりをしている。

『イワーノフ』の妻アンナ

今回なぜ『イワーノフ』なのか?の答えは鈴木先生に聞くしかないが、1つの解釈としてありうるとも思うのは、イワーノフの妻であるアンナに日本の未来を見出しうるという見方だ。

『イワーノフ』では不貞を働かれた挙げ句に「黙れユダヤ人」と罵られ、病気で死んでいってしまったアンナではあったが、そこに鈴木先生は甲斐甲斐しい日本の女性を重ねて見せる。チェーホフには書かれなかったアンナの可能性世界が後半パートで展開して、「日本の未来」が幻視されるという趣向だ。男性陣が力を失い暴走していく中で、女性たちの力強さは印象的だった。

※果てこん1は明確に男性たちの物語。2でも女性たちの奮闘は描かれていたが、3はより明確に女性が中心に置かれたと見ることもできる。

今はすっかり狂ってしまって、熊本の病院に入院中。日本人を辞めるための脳摘出手術に臨むか、しじみ汁を飲んで日本人の黄色さを薄くするかを悩んでいる。
https://x.com/SCOT_Toga/status/1871040094305702168
病院に慰問にくる謎のアイドルグループ"パンプキン"。もはや論理を超越して底抜けに元気だが、男性たちは彼女たちから力をもらう存在。なんと鋭い現代批評か。

合理性を超えた愛、そしてそれを支える強さ。これはラストで歌われる美空ひばり「芸道一代」に流れる感情でもある。

いのち一筋芸一筋で
勝つか負けるかやるだけやるさ
女黒髪きりりとかんで

仰ぐおぼろの仰ぐ
おぼろの月の色 月の色

女一人で生きぬくからは
踏まれ蹴られは 覚悟の前よ

姿見せずに泣くほととぎす
女心を女心を誰が知ろ 誰が知ろ

「芸道一代」https://www.uta-net.com/song/63962/

西郷隆盛

しかも、このアンナ的存在は、西南戦争にて熊本城に立て籠もって自害に追い込まれた西郷隆盛のひ孫であることが発覚する。※この場面で「からたち日記由来」が使われているのも素晴らしい構成だった。

黒船来航以降、日本は急速な近代化を推進。新政府は新しい日本を作るために、断髪令・廃刀令・廃城令を次々と発布してかつての日本を否定した。昨日まで仲間であったはずの、自らもその一員であったはずの武士階級は廃業を余儀なくされ、アイデンティティをすら失っていく。西郷隆盛は日本を"更地"にする所までは志を同じくしたが、その上にどういう国を作るかの段階で意見を違え、新政府と袂を分かつこととなった。

※西南戦争は、近代的/欧米式装備の平民で構成される新政府軍 vs 武士階級の内戦。現代に連なる近代社会と江戸時代まで続いた封建社会との戦いで、西郷隆盛は古い日本を率いて敗れた。そうした点において"ラストサムライ"と呼ばれる。つまり、このアンナ的存在はラストサムライが残した遺児、日本に残されたラストサムライブラッド。

※劇では「日本神社」建立のくだりも演じられていたが、これは靖国神社のこと。西郷隆盛は新政府に楯突いた国賊(テロリスト)とされ、靖国神社には合祀されていない。

日本人の落ちこぼれ

鈴木先生によると、大久保利通らは西郷隆盛を評して、人望はあるかもしれないが官僚能力は低く無能力。と断じていたそうだ。つまり、大久保らの価値観では、西郷が代表する封建社会の日本人は、来る世においては"日本人の落ちこぼれ"と考えられた。

もちろん、明治新政府が推進・導入した徹底的な能力主義は、身分制を基本とする封建制からの脱却には不可欠だったのかもしれない。欧米と互していくには、経済成長を支える土台として新たな国民のエトスが必要だった…のだろう。

※能力主義に加え、近代的な軍隊を作るために歩き方が変えられた。また、国民の衣服は和装から洋装にもなった。明治以降、日本では皇族ですら洋装である。

しかし、その新しい国造りについていけない"落ちこぼれ"を切り捨てていく過程で、日本が落ちこぼしたものがあるのではないか。この先の日本を考えていく上でこの地点まで戻ることで見えるものがあるのではないか。「最近の若い人は西郷隆盛なんて知らないでしょ」と鈴木先生は仰ってもいた。

※劇中、「上半身」での考えと「下半身」での考えでは意見が異なる…という話も見られた。「これは性的な話ではない」とは鈴木先生による解説で、国の法律などを作る知的リーダー層と、地方の第一次産業等を支える労働者との間の乖離を意識されているとのことだった。となると、西郷隆盛的なるものは、この国の足腰としても考えられる。明治維新が市民革命ではなかったこととも関連するだろう。

我が胸の燃ゆる思ひにくらぶれば

また、劇の中では西郷隆盛を入水から救った福岡藩士・平野国臣の句も詠まれていた。

我が胸の 燃ゆる思ひにくらぶれば 煙はうすし桜島山
歌意:私の心のうちにある熱い尊王攘夷への情熱にくらべてみると、あの黒黒と噴き上げている桜島の煙など、まだまだ薄いものよ。

http://www.kangin.or.jp/learning/text/poetry/s_D1_25.html

この句が詠まれたのが1860年。その4年後、討幕急進派だった平野は捕縛され、斬首にふされる。明治を迎える4年前の出来事だった。

ちなみに、この句は2018年に安倍晋三にも引用されている。

この国を桜島の噴火よりも強く想っていたものの、意見の相違によって国家権力によって葬られた男の句。それが150年余を経て権力者の改革への決意として詠まれる皮肉。ここは「侍タイムスリッパー」を思い出してしまった部分でもある。

50年目の花火

さて、演出ノートにも記載のあるように、2025年はSCOTが利賀村で活動を始めてから50年目の記念の年になる。『世界の果てからこんにちは』はそもそも利賀フェスティバル開催10周年を記念して作られた花火を使ったショウである故、この『世界の果てからこんにちはⅢ』も50周年の記念となるSCOT SUMMER SEASON 2025にて花火と共に演じられる….と考えてよいのだろうか。

観るたびに感慨が異なる。のが "果てこん"シリーズなので、夏に屋外で観るのも楽しみではあるが、となると夏のド定番・1はやらないのか?2は?まとめて3部作一挙上演?とると、他の演目までやるのは厳しい?等の予測が止まらない。自分は3も観たいし、リア王や他のレパートリーも観たい…等など欲張っておりますが、とにかく楽しみで仕方がない2024-25の年末年始であります。


補記1 : 受け手側のリアリティー

と、書いている内に書かなきゃいけないこと出てきて長くなる一方だが、"観るたびに感慨が異なる"という部分について補足。

これは、利賀における"鈴木忠志トーク"でも定番(?)の「演出変えましたか?」「演出は変えてない、あなたが変わったんです」というやり取りにも関連する話だが、「劇的言語」にその理由が書いてあったので引いておきたい。

戸井田道三さんの『能芸論』に、能の基本的なしぐさの一つであるシオルについて書いたところがあります。シオルというのは、指をそろえた手を顔の前に二三寸のところまで上げる動作ですが、泣くことを表わしているのです。普通これは涙を拭う動作を様式化したもののように考えられるけれども、観世左近によると、これは涙を隠しているのだということなのですね。なぜ隠すのかということについての戸井田さんの解釈は、当時の民衆は非常に抑圧されていたから、涙を拭うのではなくて隠すことによって、抑圧された者の悲しみの表現が強くなるのだとしています。

それは一つの解釈ですが、シオルというしぐさは、とにかく泣いているわけです。そういう身体行動を、涙を拭っているととるか涙を隠しているととるか、見るほうの立場によって違ってくるのですね。見る人がどういう状況で育ってきたかによって、涙を拭っているととるか涙を隠しているととるか、違ってくる。流行歌などもそうでしょう。流行歌の歌詞は言語としての自律性を持っていなくて、類型に徹しているから逆に聞く人によってそれぞれの聞き方ができる。表現者側のリアリティーというよりも、受手側のリアリティーを問題にしている。つまり、曖昧にしておくことによって受手側に多面的な拡がりやりを感じさせようとする表現のあり方です。見方によれば能面にも同じことが言えると思うのです。野上豊一郎が能面を中間表情と言っていますが、そこに僕は、受手側のリアリティーというものを階層の違いを越えて拡げようとする、日本の芸能の知恵を見るのです。流行歌の大衆性もまったく同じことで、なにかそういうような・・・・

「劇的言語」

"観るたびに感慨が異なる"のは果てこんシリーズに限った話ではないのだが、とにかく抽象性が高い演目ではあるので、観るたびに感慨も違ってくるのだろう。つまり、ここまで長々と書いてきたこともあくまで"個人の感想(2025年始版)です"ということになる。

補記2 : 演劇の一回性

ちなみに、自分は初回と千穐楽とを観劇したのだが、初回を選んだ理由も年のため説明しておきたい。こちらも「劇的言語」の中で先生がお話されていたことに由来する。

鈴木 興行によるリフレイン、つまり同じ芝居を何回も上演することにも問題があると思うのです。それによって、躰が持っている表現がシステム化されてしまった。一回の上演ならばその瞬間にホームラン一発でいいのだけれども、一ヵ月なら一ヵ月の興行をしなくてはならないというと、ある一定の水準を保つという安定感が問題になる。

中村 平均打率だな。

鈴木 そうなんです。昔の能は、上演の前にまず禊をして、それから当日はお酒を土器かわらけで回し飲んで、身を潔めた上で、一回だけ演じたわけでしょう。いまはそんな風習は一般的ではなくなったらしいですけれども、上演はともかく一回だけである。一回だけということと二回以上ということには、どうも千里の径庭があるような気がするのですよ。表現行為というものはそういうものじゃないですか、文章を書くにしても話すにしても。リフレインするためには、ある仕掛けが必要になる。型というのもその一つだろうと思うのです。 それによっていわば打率は上げられても、躰に対する敏感さが追放されていった。そういう感じがちょっとあります。

「劇的言語」

今回は最初から8回公演が決まっていたため、そもそも"打率を高める"準備をされてきているはず。とはいえ、それでも、この"躰に対する敏感さ"が初回でどのように発揮されるのか気になった、ということがある。

結論からいえば千穐楽の方が練度が圧倒的に高まっており、セリフ一つ一つの粒立ちから、役者・場面の入れ替わりにおける緊張感の持続も段違いだったのだが、特にSCOTが実践するようなコラージュ劇では鈴木先生がここで問題とされていたような演劇の一回性とは異なる力学が働くような気もした。(直接お伺いすればよかった….)

補記3 : 劇団運営と俳優観

また、鈴木先生はトークにて、劇団(社会的メッセージを発信する同志の集団)を運営していると、所属する劇団員各人がどうすれば活きるかを考えることになり、各人に合った言葉や役柄を考えていくと、どうしてもコラージュ劇の方が都合が良い(その方が各人が活きる)とお話されていたのもメモしておきたい。

上記の前提となる先生の俳優観がこちらも「劇的言語」に記載されていたので、ここも引用する。(「劇的言語」の読書感想文が延長戦としてはじまってしまった…)

ただ、近代劇には観客を心理で釣っていって最終的には作家の意見を観客に心理的に了解させるのが真であるという演劇がある。そのための技術というものが非常に問題にされた。僕なんかの考える俳優観はそうじゃない。俳優が持っている資質が舞台という構造のなかでどのように開花するか、どのように新しい照明をあてられるか、という考え方です。その点で、僕は一時、元禄歌舞伎に親近感を持ったのです。つまり元禄歌舞伎というのは、すでに日常のなかで疎外されて存在する役者集団があって、その人間の特殊性を生かすために戯曲があり舞台があった。その人間の軀が持っている特殊な可能性を花開かせるための場を提供するのだ、という考え方なのです。ところが新劇の場合は、一人の、作家という言語を持った人間がいて、その作家の世界に適応し得る技術を持った俳優を選ぶ。その段階で終ってしまっている。だから俳優は一言一句も作家の言葉と違って言ってはいけない。そのうえ、<正解>というのがあるわけですからね。作家が解釈権を持っていて、その解釈と違うと、あの俳優はだめだということになる。

「劇的言語」

加えて、このご時世、"劇団"と呼べるような集団は日本にはほぼない、ともお話されていて、なるほどと唸った。だからこそ、歌舞伎の役者集団には期待しなければならないとも。

とか言っているとキリがない。この辺で止めます。
とにかく、2025年は夏に全力投球。それだけです。

いいなと思ったら応援しよう!