KAATにて観劇。見逃さなくて本当に良かった。巨大な才能に触れた感覚。どうしたらこんなテキストが書けるのか、一度完成したものを再構成できるのか。とりあえず、これからはこの劇団も追いかけねば….という強い使命感が新たに生まれた2025新春である。
『ドードーが落下する』(2022)
『ドードーが落下する』は2022年に初演され、第67回岸田國士戯曲賞を受賞した劇団の代表作。しかし、それが今回は大幅に改訂されているとのことで、見てない自分は「困ったなあ…」と頭を悩ましていたのだが、昨年末にJapan Foundation国際交流基金のYTチャネルにてなんと配信がスタート!
このタイミングの公開はやはり、"誰かの粋な計らい"と捉えるべきだろう。誰か知らないけれどありがとう。そう感謝しながら、まずは2022年の初演版を事前に鑑賞した。
いつ公開停止になるかは分からないので、観られる内に観ておいて!と会う人には声をかけるようにしている(そんなに話す人はいないが…)。というのも、今回の改訂版は、初演版と一対であると思われるためだ。
ここで、今回の公演で配られた加藤氏の「ご挨拶」を引いておこう。
加藤氏のこの逡巡を汲み取りたい。続編とも言えそうだし、並行宇宙を描いているとも言えそうだが、たしかにどうもしっくりこない。
例えは古いが、自分的に座りが良いのは「ときめきメモリアル Girl's Side」の如く、『ドードーが落下する - 夏目's Side - 』。台本の言葉を借りるなら、初演は"そっち側"、再演版は"こっち側"にカメラが置かれる。つまり、2つを重ね合わせることで、舞台に流れる感情を複眼的/立体的に味わうことができるというもので、いやはや、この演出が凄まじい(後述)。
『ドードーが落下する』(2024)
「ご挨拶」の続きも見ておこう。
この部分はSPICEの取材でより詳細に話しており、そちらの方が意図を汲み取りやすいかもしれない。
ということで、初演版は、『死ぬと伝えてくる友人を死なないように見張り続けなければいけない強迫観念』を描くために、信也たち"そっち側"の人たちに視点は置かれ、"そっち側"の人たちが動く世界として舞台は広く使われた。
しかし、今回の改訂版は、夏目が認識する世界にカメラが置かれる。自分がステージを見て最初に驚いたのは正にこの点。狭い!
KAATの公演情報を読みなおすと、正にこの通りのことが書いてあった。
主演の平原テツ氏も取材に対してこう答えている。
2022年版は「青春群像劇」と呼ぶに相応しいものだった。20代〜30代の若者の言葉がリアルに写し取られ、定型化した表現がはらむ暴力性、あるいは青春というものの残酷さ、不器用な優しさが静かな感動につながっていた。
2024年版は、その「青春群像劇」が夏目の内面世界にて展開する。だからこそ、夏目の周囲の人間は壁を乗り越えてやってくる。
また、2022年版では描かれなかった電話の向こう側にカメラが置かれたり、エピソードとして話された場面が演じられたりと、"こっち側"と"そっち側"が相互に補完されることで、全体の骨格はより強固なものに。
2022年版でやや演出的にクドかった部分も、この視点のズラしによって表現が圧倒的に洗練された。例えば、HOT LIMITやSEXの神様、タランティーノだけが分かるネタの場面等に自分はそれを感じたが、もしかしたら、余計な部分を省き/磨き過ぎてしまって、2022年版を観ていなければ"こっち側"からは見えなかった像もあったのではないか。
※そして、それははっきりと見えなくて良いように思う。夏目の妻が元々はファンだったといった話も2024年版ではカットされているが、もはやそれが夏目には"見えていない/聞こえない"ということが、彼にとってのリアルであるからだ。
発話される言葉のあまりのリアルさに、劇場の外で会話される若者の言葉も観劇前とは違ったように聞こえてくる今日このごろだが、これを演じる役者陣も見事としかいいようがない。
役が入れ替わったり、あるいは2022年版に登場しなかった相方の賢が登場したり、役者が変わったりと色々あったが、旧版・新版とでは甲乙つけ難く、それぞれの良さを場面ごとに感じた。(例えば、相方・賢のショボい優しさは、藤原季節演じる信也の優しさとは違うもので、秋元龍太朗演じる信也よりも自分中心感がよく出ていて…とか話し始めるとキリがない)
さて。まあ、とにかく見比べて楽しもう!ということに尽きる。加藤氏がてがけた過去作や映像作品も今は観られてしまうようなので、それもまた楽しみであり、忙しくもなりそうだ。
備考
「心」の象形文字の件。