藤山直美を観に、新橋演舞場へ。自分はそもそも喜劇を観ること自体が初めてだったのだが、あまりの素晴らしさに笑いと涙が止まらなかった。この感動と興奮を、記録として残しておきたい。
上方喜劇とは?
演目詳細に入る前に、まず喜劇の歴史について触れておきたい。
今まで考えたことも無かったのだが、「喜劇」というジャンル自体が明治以降に誕生したものであることにここで気付く。
上方の喜劇というと「吉本新喜劇」をすぐ思い浮べてしまうが、このwikiにある「松竹新喜劇」との違いに関する記述が上方喜劇を理解する上でもとても分かりやすく、興味深い。
加えて、松竹新喜劇の公式HP「喜劇百年の歴史」には喜劇誕生の経緯が詳細に書かれており、「曾我廼家兄弟劇」以前の歴史もここで振り返ることができる。
加えて、今年は
とのこと。こうした上方喜劇の伝統を受け継いでいるのが「松竹新喜劇」であり、「松竹新喜劇」の東京における拠点が新橋演舞場であり、「松竹新喜劇」を率いた昭和の爆笑王・藤山寛美の娘にして、芸の系譜を今に受け継いでいるのが藤山直美であるということだ。
筋書に書いてあった藤山直美のエピソードがまた良い。
唐木の看板
さて、上演された演目についても忘れぬうちにメモしておきたい。
江戸の商家越後屋、大坂の商家江戸屋。それぞれ家庭に不幸があったため、これを機会と店を閉め、許婚に会いに東海道を歩いてそれぞれ大坂と江戸を目指す途中の、嶋田の宿の茶店での遭遇を描いた一幕。
娘自慢のお浪さん&お雪 vs 清三郎の口論、さらにはお互いに許婚だと分かった後のバツの悪さを繕う感じがまず楽しい。しかし、当人同士のぶつかりあいは水に流して、決められた結婚の形に収まろうとする姿には、昔の結婚観が批判的に喜劇として表現されているのか、やや気になった。
はなのお六
そして藤山直美がいよいよ登場。父・藤山寛美の当たり役である「はなの六兵衛」を藤山直美が「お六」として受け継ぎ、上演を重ねている作品ということだ。
藤山直美はこのお六という役柄についてこのように語る。
自分が一番の見所だと感じたのもこの部分。伊勢屋に恩のある久利伽羅竜五郎とその妻・お雪に計2回、お六が江戸に上京したその理由を語る場面がある。腹を空かせた弟・妹に食べさせるものがない、ということが如何に辛いか。その辛さが痛いまでに伝わり、涙を抑えることができなかった。
記事では「ぱっと可愛くなる」とあるが、それどころの話ではない。藤山直美は時に少女のように、時に歳を重ねた女性となり、元が六兵衛だからか男性と女性の境界さえも越えて変幻自在。ステージは完全に藤山直美に掌握され、アドリブで他の役者に絡むことを延々と続けるものだから、共演者からは「お願いだから先に話を進めて欲しい」というような懇願さえ飛び出し、ここに笑いあり、涙あり、さらには凄みさえある上方喜劇の真髄を観た気がした。
自分は今回は3F席からの観劇。幸い新橋演舞場は歌舞伎座より小さいため3Fからでも十分に表情は見て取れるのだが、次回は1F席にて喜劇の伝統を是非味わいたい。
追記
こうした喜劇がなぜ上方で発展したのか。
「曽我廼家兄弟劇」旗揚げから120年なので、120年前の文化的風土にその理由が求められるのだろう。こちらの論文では、
武家社会とは異なる商人社会をその理由の1つとして見ているようだ。
また、こちらの論考では、
として、大坂の地に笑いの文化が育まれた理由の1つを地形に見ている。
120年前といえば、幕府から弾圧を受けていた歌舞伎も天覧歌舞伎を実現させ、團菊左の時代に入り、松竹が歌舞伎座を買収して役者集団の階層性が定まっていく時代。
そうした動きが起きていた東京から距離を置き、権力から離れた"周縁の地"にありながら、千年の都の文化圏にあり、豊臣の都でもあった文化的財産と、商人社会による「口の文化」、人や情報も流れ込んでくる地理的条件も有していた土地において、歌舞伎とは異なる新しい動きが出てくるのも、納得と言えば納得だ。
その後、社会から義理や人情が失われていく中で、1990年に藤山寛美が60歳の若さで亡くなり、上方喜劇の伝統も途絶えんとする一方、テレビのフォーマットに合わせたナンセンス軽喜劇が人気を博し、それが権力に接近していくわけなのだから、歴史というのは分からないものである。