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七夕喜劇まつり『唐木の看板』『はなのお六』

藤山直美を観に、新橋演舞場へ。自分はそもそも喜劇を観ること自体が初めてだったのだが、あまりの素晴らしさに笑いと涙が止まらなかった。この感動と興奮を、記録として残しておきたい。


上方喜劇とは?

演目詳細に入る前に、まず喜劇の歴史について触れておきたい。

さて、当月の新橋演舞場は「七夕喜劇まつり」といたしまして、上方喜劇から選りすぐりの演目を並べてご高覧に供します。

新橋演舞場は、藤山直美さんのお父上・藤山寛美さんが率いた松竹新喜劇の東京における拠点であり、毎年七月の喜劇公演は東京の夏の風物詩として、その笑いと人情に溢れる舞台が多くのお客様にご愛顧を賜ってきました。

上方喜劇は、歌舞伎を源流としてその芽が育ち、明治の世になって「喜劇」の名を以って誕生に至り、それはやがて全国に広まり日本の演劇の一つとして今日まで多くの皆様に愛され続けております。

筋書「ご挨拶」松竹株式会社 取締役副社長/演劇本部長 山根成之

今まで考えたことも無かったのだが、「喜劇」というジャンル自体が明治以降に誕生したものであることにここで気付く。

上方の喜劇というと「吉本新喜劇」をすぐ思い浮べてしまうが、このwikiにある「松竹新喜劇」との違いに関する記述が上方喜劇を理解する上でもとても分かりやすく、興味深い。

松竹新喜劇との棲み分け

大阪における笑演芸の劇団として、かつては日本を代表する喜劇役者の一人といわれた藤山寛美が率いた松竹新喜劇がある。同じ「新喜劇」を名乗るが、その生い立ちや内容、構成、演出法など両者は大いに異なる。

吉本新喜劇は花月で上演される漫才や落語、諸芸の間に組み入れられ、コントの延長的な軽演劇
である。テレビ中継されることもあり「芝居の途中から入場しても笑える」というコンセプトを持っていた。対して松竹新喜劇は泣きと笑いを交えた本格的な狂言・芝居であり、他の芸と組んで興行を打つことはない。しばしば松竹新喜劇は松竹芸能の演芸の常打ち小屋(劇場)であった、角座や浪花座で他の演芸と同時に上演されたように誤解されるが、そのようなことはなく、角座と同じ道頓堀・櫓町にあった中座に本拠に置いていた。松竹系で吉本新喜劇に相当する一座は松竹爆笑劇などがあたる。

松竹新喜劇は歌舞伎役者の出である曽我廼家そがのや五郎と曾我廼家十郎が結成した日本初の本格喜劇「曾我廼家兄弟劇」をその源流とする。五郎と十郎は大阪に古くから伝わる伝統芸能・仁輪加にわかを改良して本格演劇に仕立てた。仁輪加は本来即興で演じる歌舞伎などのパロディーなどであり、東京で言う「アチャラカ」(=軽演劇。ただしこちらはオペラのパロディー)と同義であるが、このような経緯を持つため松竹新喜劇は舞台中心の本格演劇に位置付けられている。内容も人間の業を描いたものや人情ものなどが多く、ギャグは入るが本筋の通ったものである。

一方の吉本新喜劇は常々「漫才芝居」と形容されるように、ドタバタ中心のナンセンス軽演劇であり、一種のスラップスティック・コメディである。ストーリーよりもギャグ、演技よりもキャラクター性を重視する。これはもともと吉本新喜劇がテレビ番組向けに製作されたものであり、テレビ中継で名を売り花月劇場に観客を呼び込む「客寄せ」の役割を担ってきたことによるものである。両者は比較されることを嫌い、吉本側も「ウチらと向こう(松竹新喜劇)は、たとえ同じスポーツであるにしても種目が違う」と言い切っている。

加えて、松竹新喜劇の公式HP「喜劇百年の歴史」には喜劇誕生の経緯が詳細に書かれており、「曾我廼家兄弟劇」以前の歴史もここで振り返ることができる。

曽我廼家劇誕生をもって、喜劇の始まりとされているが、演劇の起源とされる天宇受売命あめのうずめのみことの踊りに八百万の神々が大笑いしたという〈岩戸隠れ〉伝説も喜劇的で、中世の散楽(曲芸、奇術などのサーカス的要素をもった芸能)の物真似芸の滑稽な演技、そして狂言、文楽や歌舞伎のなかのチャリ場(狂言中、滑稽な人物が活躍する場面)や、滑稽的な芝居などにもその笑いの要素が見受けられる。

そんななかで、「にわか)」という笑いを目的としたジャンルの芸能が、享保の頃より上方で盛んになり、江戸の末頃には〈流し俄〉から 色街で演じられる〈お座敷にわか〉と変遷しはじめ、中身も歌舞伎狂言をもじった趣向の〈俄芝居〉というものも出てきた。そしてさらにぼてかづら(紙で作った張りボテのかつら)はもとより、道具、衣裳、小道具もそれなりのものをそろえた上、座敷だけではあきたらず、神社や寺の境内の仮小屋でもやるようにもなり、プロ化していった。明治にはいり大阪では、座摩神社と御霊神社でその俄を競いあった。

喜劇百年の歴史


加えて、今年は

日本喜劇の祖とされる曽我廼家そがのや五郎と十郎が初の喜劇団「曽我廼家兄弟劇」を大阪・道頓堀の浪花座で旗揚げして120年の節目にあたる。

人情泣き笑い 上方喜劇120年 

とのこと。こうした上方喜劇の伝統を受け継いでいるのが「松竹新喜劇」であり、「松竹新喜劇」の東京における拠点が新橋演舞場であり、「松竹新喜劇」を率いた昭和の爆笑王・藤山寛美の娘にして、芸の系譜を今に受け継いでいるのが藤山直美であるということだ。

筋書に書いてあった藤山直美のエピソードがまた良い。

あるとき、寛美の娘の藤山直美に、上方人情喜劇の本質について尋ねたことがあった。長い沈黙のあと、「・・・悲しさ、かな」と答えが返ってきたのを覚えている。人生のペーソスや人間の哀感が笑いの中にある。それこそが、本物の人生である。だからこそ、何度観ても心打たれるのではないだろうか。

筋書「上方喜劇 笑いの中にある本物の人生」亀岡典子
やってきました新橋演舞場

唐木の看板

さて、上演された演目についても忘れぬうちにメモしておきたい。

江戸の商家越後屋、大坂の商家江戸屋。それぞれ家庭に不幸があったため、これを機会と店を閉め、許婚に会いに東海道を歩いてそれぞれ大坂と江戸を目指す途中の、嶋田の宿の茶店での遭遇を描いた一幕。

お互いに訪ねる双方が同時に旅に出たのも皮肉ですが、これまた更に皮肉なことに、東海道袋井と見附の間の立場の茶店で、お浪、お雪親子と清三郎は偶然にも落ち合いました。しかし双方とも一面識もないこととて、ただ行きずりの旅人同士。

娘自慢のお浪は、無事大阪に着くまではお雪に何事があっても大変と、たとえ猫でも犬でもそばへは寄せつけず、身なりも目立たぬ親子巡礼に扮し、お雪にはめったに物を言わせぬという用心深さ。

まして茶店で同席した清三郎を、訪ねる相手とも知らぬお浪は、清三郎が若い男だけにひとしお厳しい警戒ぶり。清三郎とて、もとよりこの巡礼親子が我が嫁親子とは知る由もなく、お浪の常識外れの警戒ぶりにすっかり腹を立て、つい売り言葉に買い言葉、とうとうつかみ合いの喧嘩にまでなった挙げ句、散々、悪口の限りを叩きつけ合って互いに西と東へ別れてしまいました。

筋書より
ちなみに、こちら嶋田
この辺ですね

娘自慢のお浪さん&お雪 vs 清三郎の口論、さらにはお互いに許婚だと分かった後のバツの悪さを繕う感じがまず楽しい。しかし、当人同士のぶつかりあいは水に流して、決められた結婚の形に収まろうとする姿には、昔の結婚観が批判的に喜劇として表現されているのか、やや気になった。

はなのお六

そして藤山直美がいよいよ登場。父・藤山寛美の当たり役である「はなの六兵衛」を藤山直美が「お六」として受け継ぎ、上演を重ねている作品ということだ。

徳川家康より授かり、有馬家に先祖代々伝わる白旗が、伊勢屋にて洗濯の折に思いもかけぬ天狗風にさらわれて紛失。その旗が見つからなければ、殿は切腹・お家は断絶。上へ下への大騒ぎとなっているところに、故郷から江戸にやってきたお六が自慢の鼻をつかって….という話。

藤山直美はこのお六という役柄についてこのように語る。

お六のような若い女の子が、吉野の在所から江戸までひとりでやって来るなんて現実にはあり得ないことです。ましてやお城に招かれてお殿様に会うなんて。喜劇のおとぎ話として観ていただけたらと思います。お六は道中で増上寺の御霊屋おたまやさんのことを聞いてお参りに来ますが、自分が出世したいわけやないんです。家族にお腹いっぱいご飯を食べさせたいと思っているだけの親孝行で弟・妹思いのやさしい子です。そういうところが大好きですね。

筋書

自分が一番の見所だと感じたのもこの部分。伊勢屋に恩のある久利伽羅竜五郎とその妻・お雪に計2回、お六が江戸に上京したその理由を語る場面がある。腹を空かせた弟・妹に食べさせるものがない、ということが如何に辛いか。その辛さが痛いまでに伝わり、涙を抑えることができなかった。

また萬次郎が、「はなのお六」でお六を演じる藤山について「直美さんが舞台に出てくればお客様は喜びますよね。そこで舞台の90%が終わっていると言ってもいい(笑)。あとはお六を演じる直美さんが、ぱっと可愛くなるのが見どころです。失礼な言い方をすると……おばさんから少女みたいに可愛くなります(笑)」と言及すると、藤山は「お六は15・6歳の設定なので、実年齢から50歳サバ読んでますからね(笑)。申し訳ございません、警察に捕まります(笑)」と返す。

「七夕喜劇まつり」開幕、見どころは藤山直美が“ぱっと可愛くなる”ところ

記事では「ぱっと可愛くなる」とあるが、それどころの話ではない。藤山直美は時に少女のように、時に歳を重ねた女性となり、元が六兵衛だからか男性と女性の境界さえも越えて変幻自在。ステージは完全に藤山直美に掌握され、アドリブで他の役者に絡むことを延々と続けるものだから、共演者からは「お願いだから先に話を進めて欲しい」というような懇願さえ飛び出し、ここに笑いあり、涙あり、さらには凄みさえある上方喜劇の真髄を観た気がした。

自分は今回は3F席からの観劇。幸い新橋演舞場は歌舞伎座より小さいため3Fからでも十分に表情は見て取れるのだが、次回は1F席にて喜劇の伝統を是非味わいたい。

品のある劇場空間
舞台美術も温かみがあってとても素敵


追記

こうした喜劇がなぜ上方で発展したのか。

(編集部)現代では「大阪人はおもしろい」というイメージが全国共通といって良いほど浸透しているように感じます。この状況はかなり昔からあったのでしょうか?

(佐藤先生)文学史上の記録を紐解いてみると、「大阪人=冗談好き」という認識自体は近世から多少見られますが、それが顕著な例として現れてくるのはここ100年くらいのことです。

大阪はいつから「おもろく」なった? 笑都大阪の誕生物語

「曽我廼家兄弟劇」旗揚げから120年なので、120年前の文化的風土にその理由が求められるのだろう。こちらの論文では、

大阪は、「サムライ社会」におけるように、「笑い」を軽蔑することなく、むしろ「笑い」を奨励する文化を発達させてきた。その発達の理由は、大阪が江戸時代から一貫して「商人社会」として発展をみてきたことにあると思われる。そこに商人たちのライフスタイル、生活文化が生まれたわけである。まずは大阪人が発達させた大阪弁があげられる。商人は、「交渉する」ことが日常の生業としてあって、大阪弁を使ってそれを円滑に行ってきたわけである。当然のこととして「 口の文化」が発展する。しかも商いは厳しい「競争関係」のなかで行われるので、競争からくる緊張や対立は、笑いによって緩和する必要がある。人と人との距離をできるだけ近くにとっていこうとするとき、笑顔や笑いは欠かせない。洒落やジョーク、笑わせるための方法も発達する。毎日の生活の中に笑いがあり、笑いのある生活文化が発達をみた。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/ksr/5/0/5_KJ00008433922/_article/-char/ja/

武家社会とは異なる商人社会をその理由の1つとして見ているようだ。

また、こちらの論考では、

小さな町であった大阪に、もともとの「笑い」の文化はなかったのではないか。まずは、町の形成、発展とともに寺内町として成立する前後に、川伝いに各地の芸能村から芸人が流入し、「笑い」の文化を持ち込む。その後、16世紀に豊臣秀吉が築城してから、芸能村の出稼ぎ芸人ばかりではなく、大坂に集まる武家階層も「笑い」の素材を持ち込んだはずだ。17世紀初頭までには、川の道、海の道を伝わって流入した「笑い」の素材は大坂町民に受容され、「笑い」の文化を熟成させることになる。もちろん、「笑い」は流入してくる文化現象の一部である。「笑い」の素材以外のものも流入し、淡路島、播州から伝わる人形芝居が「人形浄瑠璃」として成立するのは、その一例である。

(中略)

江戸時代に大坂の川伝いに流入するものは、大坂に敵対する勢力ではなかった。江戸は天下の治世を司る場所として繁栄はするが、敵対勢力が攻め入るという緊張は高い場所であった。大坂は、敵対勢力に攻め入られるという心配の少ない場所であった。この違いが、同じ川と海の道を持つ土地でありながら、大坂が「笑い」を謳歌する土地となった理由のひとつであろう。

として、大坂の地に笑いの文化が育まれた理由の1つを地形に見ている。

120年前といえば、幕府から弾圧を受けていた歌舞伎も天覧歌舞伎を実現させ、團菊左の時代に入り、松竹が歌舞伎座を買収して役者集団の階層性が定まっていく時代。

そうした動きが起きていた東京から距離を置き、権力から離れた"周縁の地"にありながら、千年の都の文化圏にあり、豊臣の都でもあった文化的財産と、商人社会による「口の文化」、人や情報も流れ込んでくる地理的条件も有していた土地において、歌舞伎とは異なる新しい動きが出てくるのも、納得と言えば納得だ。

その後、社会から義理や人情が失われていく中で、1990年に藤山寛美が60歳の若さで亡くなり、上方喜劇の伝統も途絶えんとする一方、テレビのフォーマットに合わせたナンセンス軽喜劇が人気を博し、それが権力に接近していくわけなのだから、歴史というのは分からないものである。

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