三浦春馬ー春馬くんの日を前に
最近の私はプラバンに夢中だ。プラスチックの板に好きな絵を描いて、熱して、キーホルダーなんかにする、あれだ。同僚にその存在を教えてもらってから色々作っているが、今はもっぱら春馬くんの顔を色鉛筆で描いている。
描いていて、「あー、かわいい!!本当に可愛い!!」「相変わらずかっこいいな!!」「なんでこんなに美しいのか?!」っていつも言葉が口から出てしまうのだけど、まぁ、とにかく素敵な人だからしょうがない。色鉛筆から、彼の心身ともに美しいその居住まいが伝わってくるようで、きれいすぎて描きながら少し涙が出る。彼の思いが鉛筆を通して感じられたら、私はどれだけ救われるだろうか、とやはり彼に思いを馳せる。
あれからもうすぐ一年である。通勤路から見える海のずっと向こうに停泊する船も、あの位置から変わっていない。私の心もあのままか。それとも少しは進んでいるのだろうか。
この一年は何だったのだろう。いろんなことに一喜一憂して、いろんな感情に襲われたからか、自分自身、地を踏みしめている実感がなくて、ふわふわな霧の上を歩いてきたら、今日になったという感じだ。
あの日ーーー。おばの電話でそのことを知って、同僚からもラインが来て、色々な人から連絡が来て、(って私、どれだけ春馬が好きって感情をダダ漏れしてたんだろうと思う)、皆に何を言われても、よくわからないけどとにかく冷静だった。同僚のラインには「私たちにはわからない何かが彼にはあったんだろうね」と返していて、今思えば、何でそんなにクールに返せたんだよ、と思うけど、あの時の私は、わざとらしくもクールでいないと、自分がバラバラに壊れてしまいそうだったんだ。
夜が深くなって、仰向けになってイヤホンで「キンキーブーツ」の音楽を聴いて、春馬くんのつややかな声を聴いていたら、しゃくりあげるでもなく、声が出るわけでもないんだけど、等間隔にポツポツと点滴が落ちるみたいに、止むことのない涙が流れてきた。「ああ、私、今すごく悲しいんだ。」と実感した。実感したら悲しさに拍車がかかって、気づいたら、南半球まで到達するんじゃないか、と思うほどの底にいた。
以前、同僚が推していた韓国の俳優に同じことが起きた時に、「芸能人のことでそんなに感情が揺さぶられるものなのかな?」と単純に思ったことを記憶している。直接関わりのない人に対して、そこまで嘆きの感情を持つのが信じられない、とさえ思った。まさか、未来、自分にそんなことが起こるなんて想像だにしていなかった。
タイムマシーンがあれば、あの時の私に「そんなことも起こるし、嘆きもする。もっと人に寄り添えよ。」と、耳元で忠告したい。その前に、タイムマシーンがあったら、春馬くんに、「あなたは本当に素晴らしいの。そう思っている人がたくさんいるのよ。」と伝えたいし、それでも、「そう思っている人たちのことは気にせずに、自分の心を大切にしてね。」って言いたいけれど、私もずいぶんと大人だから、それが叶えられないことも十分わかっていて、どうしようもない気持ちになる。
あの時の私はどうしようもなくズタボロで、何でファンレターを書かなかったんだろう、とか、何で「罪と罰」に行かなかったんだろう、とか、「ホイッスルダウンザウィンド」も無理してでも行けばよかったとか、とにかく、日々そういう感情に苛まれていた。多分少し、心が病んでいた。それを救ってくれたのは春馬くんを目の当たりにしたという実感と記憶で、それらを綴ることが私の生きる糧になった。
「キンキーブーツ」の音楽文を筆頭に、私は春馬くんへの思いを綴った。ツイッターのリプ欄にはたくさんの温かいコメントを頂いた。自分の気持ちを綴っただけの文が、人の共感を呼ぶことに驚くと同時に、自分の傷が少しずつ癒えていくのを感じていた。
共感できる人たちと思いを共有できるって、ありがたいことだと思った。春馬くんへの思いももちろん、心ない報道に心を痛めたとしたら、思いを寄せあえるのだ。春馬くんが旅立ってしまって、弱り果てた心は、そういう人たちのおかげで心強いものとなった。
私は文を綴る前に、繰り返し春馬くんの作品を見返したり、聴いたりするのだけど、彼はどんな役をやっても品を損なわない。笑顔も涙顔も怒り顔も困った顔も、そして目を奪われるほどの色気も、必ずどこかに品が備わっていて、綺麗だ。きっと万人には到達できない、彼の心の持ち方そのものが、役としても出てきているのだと思う。ただ、その確固たる心の持ち方が逆に彼自身をしばりつけていたとしたら、それで身動きが取れなくなっていたとしたら、それはとても悲しいし苦しい。物事は表裏一体だとするなら、作品の中の美しい春馬くんを見ると、同時にそんな切なさも感じ取ってしまう。そう感じ取りながらも、また美しさに見惚れてうっとりして、ため息をつくのだけど。なんだか私の心は磁石の永久運動で動くおもちゃみたいで、せわしない。
春馬くんが関わった作品は、旅立ったからという理由と関係なく、見返したい作品が多い。春馬くんは多岐に渡るジャンルに携わっていたから、その時の自分の心の状況に沿わせて選べると言うのもあるけれど、自分が何か立ち返りたい時にもう一回見てみよう、って思える作品が多いのだ。多分それは春馬くんの役者としての爪痕みたいなのが強烈で、必ず人の心の中に、記憶の中に残っているからだと思う。それこそ役者としての力量あり、努力の証なのだろう。日本の芸能界では相変わらず新しい物、人、作品が次々と入れ替わり立ち替わりだけれど、消費されず、潮が引いても、水の流れに流されず、そこに佇む作品はそう多くはないから、やっぱり彼は偉大だと思う。
ここで、以前、野際陽子さんのお嬢さんが言っていたことを思い出す。「幸い母は女優で、多くの作品を残してくれたから、それを見たらいつでも会える。」と。
まさしく春馬くんに会いたければ、作品を見たら私たちは会える。それは、彼が旅立つ前も、旅立った今も、変わることのないセオリーだ。だとするならば、私たちは彼の作品を観て、聴いて、彼に会い、彼の素晴らしさを、消費されずに佇むその作品の素晴らしさを、変わらず語っていけばいい。
唐突だが、矢野まきという女性アーティストのコンサートに行ったときに、彼女が語ったことが印象的だ。「いずれ神様のところに行って、私はこの世でこれだけのことをしてきました、とぐるぐるに巻かれた巻物を見せる時に、その巻物にはちゃんとしたことが書かれていたい」的なことを言っていたのだ。うん、たしかに。人間だから良いことも恥ずかしいこともちょっとダメこともしちゃうかもしれないけれど、私も良いこと若干多めの巻物を見せたい。それと私は神様だけじゃなくて、そこにいるかもしれない春馬くんにも見せたい。あなたから学んだことを生かして、繋いで、これだけのことをしてきたよ、ってちょっと誇らしく私の巻物を見せたい。
2日前、停泊していた船がいなくなっていた。どうやら船も進んだらしい。わたしたちもようやく歩みを進めなさい、ということなのか。
「生かされている者は、まだ、この世の中で与えられた宿題をクリアできていない。」と聞いたことがある。これ以上の宿題や課題レポがあるのか、難儀だなと思う。でもローラの「でも、あなたはここにいるじゃない?/(息子じゃないの・キンキーブーツより)」の言葉を借りるならば、私たちはここにいる意味があるのだから、ここにいる限りは、春馬くんのすばらしさを語りながら、一途に、一生懸命、たくさんの宿題に取り組んでいこうと思っている。
1年目の夏は巡ってきた。今日も私は春馬くんが大好きで、尊敬している。巻物に綺麗な墨が落とせるように、太陽の光を浴びて、彼の自由を祈りながら、推しに恥じない歩みを進める。
今、私にできるのは、それだけだ。