さかいゆう「君と僕の挽歌」ー春馬くんと友達と
今日の文章はおおよそ2か月前に書いたものです。音楽文に投稿しようと思っていたんだけれど、なんか、これは違うな、春馬くんのファンの方に読んでもらいたいな、と思いました。なのでnoteに載せることにしました。
春馬くんのことではないのですが、このアーティストの歌を通じてこれからの向き合い方の一助になれればと思います。2か月前の自分のままだったら掲載する気持ちになれなかったので、私も一歩進んだかなと思います。
文章の前に、今回書いた音楽は、さかいゆうの「君と僕の挽歌」です。こちらから聴けます。結構、ずしっと来る歌なので、ちょっとまだ心が、、って方は聴かずにいてくださいね。
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私はあまり夏が得意じゃない。
暑いし、じめじめするし、髪は天パでくるくるになるし、化粧も落ちる。落ちたら直さなきゃだし、面倒くさい。暑い中で料理するのも億劫だし、かと言って売ってるものを食べるのも健康を考えるとどうなんだろう、と思う。クーラーをつけたら今度は体が冷えるし、だるくなるし、夜は寝付けない。生活することが面倒くさい。あんまりいいことがない。
夏は少し感傷的になる。自分の大好きな人たちが、何人か旅立ってしまった季節でもあるからだ。夏の訪れは、その人たちのこと思い出させる。思い出して感じることは大切な儀式ではあるけれど、どこかでもう十分だろうと言い聞かせたりもする。十分だと思うのは悲しみから逃れる行為に似ている。幾度となく、そんな夏を過ごしていたから、たまには燦燦と降り注ぐ太陽の光を浴びて、晴れやかな気持ちになりたいっていう思いもある。いや、そうかな。やっぱり、もともと夏が好きじゃないから、どうかな。
そんな私でも、音楽が好きだから、アーティストが一堂に集まる夏フェスには行く。矛盾しているだろうけど、音楽と夏を天秤にかけると音楽が圧倒的に勝る。前の晩から天気を気にしたり、色々な状況に備えて準備するのも楽しかったりする。でもいざ当日会場に行くと前列は目指さない。遠くからゆるり、ゆるり。推しでもないけれど、気になるアーティストを、炭酸ジュースを飲みながら見るのが至福の時だったりする。モッシュとかサークルとか見て、できない!!って思っている自分が好きだったりもする。まあ今年は軒並み中止で、行けないけれど。
そもそも音楽は大好きだが、音楽を聴いて感動して涙が出たのは覚えているだけで3回だろうか。感動して泣くって、滅多にないことだから。
一つはドリカムの「ワンダーランド」2011。東日本大震災後の初の「ワンダ-ランド」で、冒頭の「何度でも」を聴いた瞬間、苦難の先の力強さにポロポロ涙が落ちた。
一つは2019年ミュージカル「キンキーブーツ」。三浦春馬の歌唱力の素晴らしさを目の当たりにして心が震え、圧倒的な存在感に泣いた。
そして最後は2012年「オーガスタキャンプ」。さかいゆうの「君と僕の挽歌」。友達を思い出して最初から最後まで泣きっぱなしだった。
さかいゆうの「君と僕の挽歌」はさかいの友人の死をきっかけに書かれている作品である。挽歌とは人の死を悼んで歌うという意味だ。
私にもとても大切な友人がいて、誰にでもそういう友人がいると思うけれど、多分初めて大ゲンカをした友人でもあった。本音で語れる友達だった。
彼女が進学で地元を離れるときに、「私とお揃いなんだよ」と言って、ピンクのご飯茶碗を2つくれた。浪人する私に、あなたなら大丈夫だ、と言ってくれた。
その友人はある日突然、逝ってしまった。理由は今もわからないし、知りたくない。ただ、その後の喪失感というのは、言葉に出して語れるものではないし、むしろその友達を知らない他人に語らない方が良いと思っていた。
淋しさは続くだろう この先も
思い出 増えない でも輝いている
今 どんな大人に見えるかな
(「君と僕の挽歌/さかいゆう」より)
どこまでも続く空の下で、この歌詞から始まる歌を聴いたときに、瞬時に過去がフラッシュバックした。
体育で走らされた地獄の20分、ぶらぶら回った雑貨店、文化祭でバンドを組んだこと、もうちょっと練習してよ、って言われたこと、彼女がこだわって選んで着ていたオーバーオール、恋愛話をする放課後、古めかしい喫茶店の紅茶とチーズケーキ。
さかいが友人との間に持っている思い出と同じように、私と友人との間にも持っている思い出がある。思い出は増えてはいかないけれど、褪せることもない、褪せることもなければ、消えることもない、そう言ってもらえた気がして、涙が込み上げた。
さらに、さかいは語りかけるように歌う。
How's it going?
調子どうですか?
こちらはツライこともありますが
君へと届く気がするから
こうして歌っているよ
(「君と僕の挽歌/さかいゆう」より)
調子はどうか、と友人に語りかける。この世に存在がない相手に語りかけても返事はないことは誰もが分かっている。それでも語るということは、喪失感を自分の中で認めて、それを受け入れていく作業なのだと思う。それは同時に自分を見つめることでもあり、見つめることで自分の想いを確認していく。そうやって想いを確認することは、自分の意思が芽生える瞬間でもあり、生きていくための一つの過程なんだろうと思う。喪失感を語っても良いのだと、それを自分に許しても良いのだと思わせられ、逆に友人への思いに蓋をしていた自分が、少し情けなくなった。
静寂の中 瞳閉じれば
こだまする懐かしい声
時を超えて 本当の意味で
つながりあって生き続けていく
(「君と僕の挽歌/さかいゆう」より)
目を閉じた先にあるのは記憶である。記憶とその人の声とを反芻させて、自分の中に落とし込んでいけば、それがつながりあっているということなのだろう。時には空に向かって問いかけたり、弱音を吐いたりして、自分が生き続ける限り、そうやっていつもつながっていることを意識していくことがきっと自分にできる友人に対してできる唯一のことなのかもしれない。そう思えて、やっぱり涙が止まらなくなった。
美しいハイトーンでさかいゆうは、丁寧に、自分の想いを込めて最後まで歌い上げた。歌い終わった後に周りを見渡すと、誰もが泣いていた。ひとりひとり、感じ入るものがあったのだと思う。あの時のさかいゆうの歌、パフォーマンスには音楽に自分の想いを乗せながらも、人の気持ちに寄り添うやさしさがあった。それは同時に私にとっての救いでもあった。音楽には必ず救いがある、涙をぬぐいながらそう強く思った瞬間だった。私は生涯、あの瞬間を忘れることはできない。
もうすぐ夏も終わる。けだるい体を起こして、ピンクのお茶碗でご飯を食べて。でも暑いから、米は今日はやめて麺にしようか。あれこれ考えながら、19年。記憶は未来へとつながって、今日という日を作っている。