明日はきっといい日になる
高橋優の『明日はきっといい日になる』にあるこんな一節。
勇気振り絞って 席を譲ってみた
「大丈夫です」と 怪訝そうに断られたそのあと
決まり悪そうに 一人分空いたまんまのシート
電車かバスか、席をゆずろうとしたけど断られたというシーン。このあいだ、まさにこんな場面を見かけてしまった。
お昼前、ちらほら立ち乗車が目立つ混み具合だった。僕はドア横に寄りかかって本を読んでいた。そのちょうど目線の先ほどに、20歳前後の女の子が2人がけのシートにそれぞれ座っていた。2人は知り合いで、仲良くプリント片手に勉強をしていた。
電車が発車してすぐだったと思う。その2人が何やら相談をし、立ち上がった。近くに立っていた人たちに話しかけた。その方々は女性で、1人は40歳ほどで赤ちゃんをだっこしている。もう1人はその女性の母親か、70歳くらいに見えた。
女の子たちは、女性に席をゆずろうとした。ところが女性は断り、そのまま立つことを選んだ。女の子たちも戻るわけにもいかず、バツの悪い空気が流れる。残ったシートはつぎの駅まで、寂しそうに誰かが来るのを待っていた。
見えなかっただけで、ベビーカーがあるとか、座れない事情があったのだろうか。でもこのとき、僕は座ればいいじゃんって思った。だって女の子たちは親切でゆずろうとしてくれた。それを受け取らないってことは、親切を拒絶するということ。
あるいは親切にたいして、嘘でも受け入れたあげるのか親切というもの、とも思った。しかし親切だからといって、いらないものを押し付けられるのも不愉快。ありがた迷惑でしかない。
ならあの瞬間、女性たちはどうするのが正解だったのだろう。はたまた女の子たちは、どうすれば良かったのだろうか。
僕はこうなるのが嫌だから、混み出したら周囲をうかがい、優先した方が良さそうな人を探す。いなければそのまま座っていればいい。いたら無言で立って、自由にどうぞっていう風にしている。
これなら本当にシートを欲しているなら座るだろうし、そうでないなら別の誰かが座ればいいだけ。時にはそれすらも億劫で、座らないという選択をすることもある。
とにかく僕は、あの「誰かゆずれよ!」って空気も「ゆずったね!」って空気もいやだ。電車のなかは無風の真空状態であってほしい。そうでないと居心地がわるくてしゃーない。
誰かに席をゆずるのは尊い行動だ。そこからコミュニケーションが生まれてってこともあるかもしれない。だとしても僕は、ゆずる人にもゆずられる人にもなりたくないと思ってしまうのである。