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春分前の天川詣
宇宙とつながる場所。
風水の面から見ても、めったにない特別な場所−−−。
そんなふうに評される天川について知ったのは、以前「のぞき見スピリチュアル」でも触れたヒーラーさんがきっかけでした。
(そのヒーラーさんのセッションについて書いた過去記事→「拝啓、麒麟様」「からだとたましい、それぞれのテーマ」※反響すごかったです〜。ありがとうございました!)
そのヒーラーさんがチャネリングしている存在と出会ったのが、天川にある天河大弁財天社だという記事を読み、初めてその名を知ったのですが、調べていると能舞台があり、世阿弥とも縁のある神社だとか。
能も、昨年から私の人生に表れたテーマであり、最近ご縁を感じているトピック。そのため「一度行ってみたいなぁ」とぼんやり思っていたのです(ちなみに御祭神の弁財天は芸能の神様なことから、お忍びでお参りする芸能人も多いそうです)。
「いつか」レベルの思いだったのですが、いろいろの準備が整ったと言いますか、つまるところ有給休暇で時間ができたので、天川詣をすることに。
天河大弁財天社があるのは、奈良県天川村。東京からだと新幹線で京都まで行き、電車を乗り継いで90分ほどかけて下市口駅へ。そこからバスに乗り1時間強という、なかなか遠い場所。しかも、ネットで調べていると、パワースポット系にありがちな「呼ばれないと行けない」とか、「天候が悪いとたどり着けない」的な話も出ていて、「やばい。なんだかたいそうなところらしい……!」という畏怖の念が否が応でも高まります。
予定では昼頃に着く予定でしたが、たどり着けなかったときのことも考え、念のため2泊する手配を整え、いざ、天川村へ。
京都から特急に乗り、橿原神宮前駅で乗り換え、下市口駅へ。着いてみるととてもこじんまりした駅で、周囲にはコンビニや売店の類も見えません。
あいにく小雨が降り始め、「いいお天気」とはいえない状態。「今日お参りするのは難しいかなぁ……」と案じながら(それでも明日があるし、いいのだけど)、やってきたバスに乗り込みます。
バスはかなりスローリー(元来、バスってそういうものだけど、それ以上にというか)。途中腹痛に襲われながら(弁天様にたどり着くための試練だろうか……!と自分を励ます)、山あいを進み、天川村へ入っていきます。
電光掲示板に「天河大弁財天社前」の表示が出たので降車ボタンを押し、小雨の降る中へ降り立ちました。
バス停のすぐそばに、真っ赤な鳥居が。
ここが、天河大弁財天社……!
「癒してくれる」というより、どこかピリッとした、厳かな空気が漂っています。
鳥居をくぐり、手水所で身を清め、石段を登っていくと、右側に能舞台がありました。
(真っ暗な状態だったので画質が悪いです)
ここで能やミュージシャンによるライブが行われることもあるのだとか。
絨毯に覆われていて見えませんが、床は一枚板でできているそうです。
能舞台の向かいに拝殿があり、人が近づくとパッと電気が灯ります。
私がお参りしていた時、なぜか急に電気が消え、またパッと点くということがあり、それはちょうど心の中でお願いしていたこととリンクしていて、弁天様と会話したような気持ちになりました。
よくある機械の不具合かもしれないけれど、私の中ではそういうことにしよう。
しかし、完全に先入観だったのですが、奥に森が広がっていたり、資料館があったりして2、3時間はゆうにいられる広大な敷地だと思っていたら、境内にあるのは主にこれだけでした。
……はい、主にこれだけでした。
念のため巫女さんに確認すると、やはり他には特に何もない様子。しかし、遠路はるばる来たので、境内のベンチに座り、雨音を聞きながらしばらく景色を楽しみます。
そんなわけで雨だったのは残念ですが、お参りは初日にサクッと済んでしまいました。二日目にもう一度来ようかなとも思ったのですが、レンタカーがないと交通の面でかなり不便だったため(初日はもうバスがなかったので、天河大弁財天社から宿まで、村に一台しかないというタクシーを使いましたw)、二日目はキャンセルして帰京している次第であります。
えぇ、正直、「思いのほかさっくり済んでしまったガッカリ感」があるのですけれど……でも、それってなぜかというと、やはり私が「ドラマを味わいたい」生き物だからだな、と。
何の障害もなく、すんなりと成し遂げられると、逆につまらないというか。「こんなに大変な思いをしたけど、結果として無事にお参りできた」「もう無理かなと思ったけど、こんな奇跡が起きて、弁天様にご挨拶ができた」みたいな、「苦しい」「しんどい」「もうダメだ」からの一発逆転、達成するというストーリーを、自分自身で欲しているのだなと、つくづく思い知らされたのです。
ドラマはもういらないと思っていたけれど、やっぱり「それがないと叶った感じがしない」というのはありますよね(ネタにもならないしねぇ)。
ちなみに宿の方曰く、参拝者の中には「どうしても境内に入れなかった」という方もいるそうなので(結界とかエネルギー的にブロックされるのでしょうか)、「何事もなくすんなりお参りできた」ことも、意味があるといえばあるのかもしれません。
期待していたような、とびきりスピリチュアルな体験はありませんでしたが、お祈りの最中に一瞬つながりを感じられたこと、山深いあの地まで行く時間や元気があったことに改めて感謝し、来たる春分、2017年の始まりを準備万端で迎えたいと思います。