第15週 水曜日 教育者 下田歌子
第15週の教育者は日本の明治から大正期にかけて活躍した教育者・歌人。女子教育の先覚者で、生涯を女子教育の振興にささげ、実践女子学園の基礎も築いた下田 歌子さんです。
下田 歌子(しもだ うたこ)さんは、1854年9月29日平尾 鉐(ひらお・せき)さんとして美濃国恵那郡岩村(現在の岐阜県恵那市)の藩士の家
にお生まれになりました。
幕末に勤王派の藩士だったお父さんは蟄居謹慎を命じられますが、苦難の中、鉐さんは祖母さんから読み書きを習い、5歳で俳句と漢詩を詠み、和歌を作るなど神童ぶりを発揮されました。
書物を読んで善い事だと思うと、すぐに行動にうつす事も多かったそうです。
鉐さんは『二十四孝』という中国の親孝行を書いた書籍に、両親が蚊に刺されるのを防ぐため、自分が裸になって蚊を引き寄せたという内容があり、それを実際に実行したという逸話が残っています。
元号が明治になりお祖父さんとお父さんは新政府の招聘を受けて東京に出ることになります。17歳になった鉐さんも上京しました。
そのとき、故郷の国境、三国山の峠で「綾錦着て帰らずは三国山 またふたたびは越えじとぞ思ふ」という歌を詠んでおられます。
明治5年(1872年)、女官に抜擢され宮中へ出仕されます。
武家の子として身に付けた礼儀作法や、儒学者の祖父仕込みの学識、和歌の才能で皇后・美子様から寵愛され「歌子」の名を賜られます。
そして宮廷で和歌を教えるようになる。
明治12年(1879年)に剣客の下田猛雄氏と結婚し宮中出仕を辞されます。
3年後に夫が病に臥されます。
看病のかたわら、歌子さんは 自宅で『桃夭(とうよう)女塾』を開講されます。
当時の政府高官の殆どがかつての勤王の志士だったため、彼らの妻の多くは芸妓や酌婦でした。彼女は世間知らずではありませんが、、正統な学問のないので古典の講義や作歌を教えた。
明治17年(1884年)、夫・猛雄氏が病死します。
同年に塾の実績と皇后の推薦で、歌子さんは創設された華族女学校の教授に迎えられた。
翌年には学監に就任。華族の子女のみが学んだこの学校では古式ゆかしい儒教的な教育がなされた。
明治26年(1893年)春、歌子さんは常宮・周宮両内親王の御養育主任・佐々木高行氏から皇女教育のため欧米教育視察を拝命されます。
その目的は皇室の伝統を保持しつつ、両内親王を海外賓客と接しても遜色ない、時代に順応した皇女として教育することだったそうです。
初めての海外渡航にあたり、歌子は西洋文化を取捨選択し長所のみを受け入れる態度で臨まれらたそうです。
同年9月横浜を発ち、イギリスのブライトンで英語学校に通った後12月にはロンドンへ向かわれます。。そこでビクトリア女王の女官を務めるエリザベス・アンナ・ゴルドンさんの知遇を得て、ヴィクトリア女王の孫娘が受けている教育と母親たちの生活に歌子さんは触れました。
市井の人々と親しく交わる女王一家と、王女が主婦として家庭を支える姿に歌子さんは強い印象を受けたそうです。
やがて先々で出会う女性たちが豊富な知識、意志の強さ、行動力を持ち、それが教育と生活習慣によって培われたことを知ったと述べておられます。。
明治27年(1894年)12月、歌子は皇女教育という目的を超え、一般の女学校への視察を始められます。
明治28年(1895年)の春にはチェルトナム・レディーズ・カレッジ(以下CLC)で校長ドロシア・ビールさんと面会します。
ビールさんは高齢で多忙だったにもかかわらず、学校の生徒やその家族と同様に歌子さんを気遣い、真摯な態度で接した。
その厚意を歌子さんは「真の親切」と表し、その人格と学問の深さ、教育に対する高い理想に感銘しました。
その後、歌子さんはケンブリッジ大学の女子学寮ニューナム・カレッジと女子教員養成校ケンブリッジ・トレーニング・カレッジ(The Cambridge Training College for Women Teachers、以下CTC。現ヒューズ・ホールを視察します。
さらにその後歌子さんは湖水地方やスコットランド、フランス、ドイツ、イタリアなど大陸の女子学校を訪問。その間の5月8日にはヴィクトリア女王との謁見を果たされています。
これらの視察によって歌子さんはキリスト教の信仰が自主独立と慈善博愛の精神を育み、学校教育や生活習慣の基盤となっていることを理解します。
それに加え育児、教育学、衛生、生理、看護法に関する知識は実利主義のもと最新の科学が教授されていました。キリスト教に対する評価は変えたものの、自らの信条を保ち下田は同年8月に帰国します。
その直後から皇女教育をめぐる宮中の勢力争いに加わっていくことになりました。
帰国後、1898年11月、歌子さんらは帝国婦人協会を設立。当時庶民の女性があまりにも男性の言いなりにばかりなっていた姿に心を痛め、「日本が一流の大国と成らん為には大衆女子教育こそ必要。」と女性に教養を授け、品性を磨かせ、自活のチャンスを与えて女性の地位向上・生活改善をはかるべく奮闘されました。
1899年1月、麹町元岡町に事務所を開設し、3月、会則を発表し、12月、機関誌「日本婦人」を創刊します。
明治35年(1902年)、大日本通信高等女学校の教科書編纂を指導します。三段式教授法を用いたそうです。
明治39年(1906年)、華族女学校は学習院に統合され、陸軍大将・乃木希典氏が院長に就任。歌子さんは軍人である乃木と方針をめぐって対立します。
明治40年(1907年)11月、歌子さんが学習院女学部長辞任されます。翌月、勲四等宝冠章に叙せられましたた。
明治41年(1908年)歌子さんは実践女学校中等学部に加えて高等専門学部を開設、実践女学校が誕生し、その校長に就任されました。
大正7年(1918年)3月、板垣退助夫人の板垣絹子さんに招聘されて、東京広尾の『順心女学校』(現校名:順心広尾学園。所在地:東京都港区南麻布)創設にあたっての初代校長となり、女子教育に取り組まれます。
昭和11年(1936年)10月8日に肺炎のため赤坂区青山北町の自宅で死去するまで、生涯を女子教育の振興にささげ、実践女子学園の基礎も築いた。享年82歳でした。
下田歌子さんは 容姿と才能に恵まれ、「明治の紫式部」ともあだ名されるが、反面政府の高官との浮名も絶えなかったと言われ、特に平民新聞は『妖婦下田歌子』と題した特集を連載するまでに至りました。特に「日本のラスプーチン」とまで言われた祈祷師・飯野吉三郎氏の権力拡大のため尽力したとされ、のちの幸徳事件は飯野氏の差し金であるとの説もあるそうです。
以下の本がそのあたりを詳しく書いていると思われます。
書かれた本は現在でも多く読むことが出来ます。
婦人常識訓
女子のつとめ【現代語訳】
女子の心得
結婚要訣
良妻と賢母
以下のような伝記もたくさんあります。
めぐめぐがすごいと思う下田歌子さんのこと
1女官に抜擢され宮中へ出仕され皇后・美子様から寵愛され「歌子」の名を賜られるほど素晴らしい教育者であられたこと。
2欧米視察で、自分の任命を超えるほどの多くのことを学んでその経験をその後の人生に活かされたこと。
3そして亡くなるまで「日本が一流の大国と成らん為には大衆女子教育こそ必要。」と女性に教養を授け、品性を磨かせ、自活のチャンスを与えて女性の地位向上・生活改善をはかるべく奮闘されたこと。
多分下田歌子さんがいらっしゃらなかったら、日本と言う国は短い間に、帝国列強と呼ばれる国と同レベルまでの地位まで当時いかなかったのではないかと思いました。