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第27週 スポーツ選手 谷亮子


はじめに


今週のスポーツ選手は柔道家で元政治家の谷亮子さんです。

ここではスポーツ選手としての谷亮子さんについて書きます。

柔道選手としてオリンピックで2度、世界選手権で7度金メダルを獲得した。2018年1月には、女子としては極めて異例の飛び昇段で六段になられました。

世界選手権7連覇・全日本体重別11連覇を含む14度の優勝・福岡国際11連覇を含む12度の優勝、オリンピックでは2個の金メダル・2個の銀メダル・1個の銅メダルと出場した5大会全てでメダルを獲得するなど圧倒的な戦績を誇り、女子柔道、柔道の普及に大きな貢献をされています。

お生まれ


谷 亮子(たに りょうこ)さんは、1975年〈昭和50年〉9月6日福岡県福岡市にお生まれになりました。

亮子さんは城浜小学校2年生の時に4歳年上のお兄さんに影響されて地元の東福岡柔道教室で柔道を始められました。。

それからわずか数か月後には櫛田神社の奉納試合で5人抜きを演じたそうで、その際には男の子を投げ飛ばして、けがを負わせたことがあるそうです。

この当時は柔道以外にピアノと書道と乗馬も習っていたそうです。
ある時ピアノの教師に「ピアノには五輪はなかと」と言われたことがきっかけで柔道に専念するようになったと言われています。

小学校4年の時には九州少年柔道大会の団体戦で優勝して最優秀選手に選ばれます。

小学校5年の時には全国少年柔道大会の団体戦に東福岡柔道教室の先鋒で出場して準決勝で敗れたものの、3位入賞を果たされます。

小学校6年の時には団体戦の全日本少年少女武道錬成大会で優勝されます。

なお、小学校の卒業文集に「私は柔道が好きな女三四郎でーす」とあるそうです。

また、レベッカとジョージ・マイケルのファンでもあったそうです。

中学時代


城香中学2年の時に体重別九州予選に出場すると、準決勝で柳川高校3年の衛藤裕美子と対戦されます。

ポイントでリードしながら終了20秒前に送襟絞をきめられて参ったをしてしまい、本選への出場はならなかったそうです。


この際に道場の師範だった稲田明氏に、「試合を放棄するようなことはするな。あと20秒辛抱すれば勝ったのに、今までやってきたことが台なしではないか。やり直しだ」と叱られて顔を叩かれたそうです。


道場では度々竹刀で叩かれていたものの、顔を叩かれたのはこの時が初めてだったそうです。

なおこの後、全日本女子代表チームの強化合宿に参加したものの、体が小さく白帯だったため、最初は強化選手の誰からも相手にされなかったそうです。

そのうち、48 kg級トップレベルの1人である埼玉大学1年の鈴木若葉さんが声を掛けると、組むや否や豪快な背負投で投げ飛ばして、周囲の強化選手やコーチをざわつかせたと言われています。

またこの当時、同じ福岡県の篠栗町道場に出稽古に赴いた際には男子中学生を次から次へと投げ飛ばして、道場破りの様相を呈することとなったそうです。
投げられた1人である中学3年の男子生徒は、自分より30 kg近く軽い小柄な田村に投げられた衝撃から柔道をやめてしまったそうです。

中学3年の時には6月の都道府県対抗全日本女子柔道大会に福岡県チームの一員として出場すされます。
予選リーグで2戦2勝を収めるがチームは敗れました。


また、体重別九州予選で優勝して7月には本選に進むも、準決勝でこの階級の第一人者である筑波大学1年の江崎史子さんに横四方固で一本負けしましたが、3位に入賞されています。

8月には全日本代表チームのフランス遠征メンバーに選ばれて、現地での練習試合では5戦全勝したそうです。

10月には強化選手選考会に出場して、決勝で京都産業大学3年の坪井由香里さんと対戦すると、小内刈で効果を先取されるが、すぐに同じ小内刈で効果を取り返すと、その後は攻め込んで判定勝ちを収めて福岡国際の代表に選ばれたそうです。

12月の福岡国際には大会が始まった1983年以来、東福岡柔道教室の一員として毎年集団演武に参加していたが、今回は初めて選手として出場することになられました。

道場の妹分である3歳年下の当時小学校6年生だった日下部基栄さんが「負けたらメシ食わさんぞー」と檄を飛ばしながら応援団長を務められたそうです。

その初戦で中国の高宇紅さんと対戦すると、大外落の技ありの他に有効2つも取って圧倒的にリードするが、終了間際に高の内股で審判団が協議になるほど一本に近い技ありを取られたものの、判定は変わらず優勢勝ちを収めることになリました。


準決勝では長年この階級の女王として君臨してきたイギリスのカレン・ブリッグスさんを体落と内股で立て続けに技ありを取って僅か28秒の合技一本で破られたそうです。

さらには、決勝でも前年の優勝者である中国の李愛月さんに背負投で技ありを取った後に内股すかしで一本勝ちして、この大会最年少の15歳での優勝を成し遂げ、衝撃的な国際大会デビューを飾られました

その直後に開催された体重無差別の福岡県女子選手権では、4階級上の66 kg級の選手である福岡大学1年の多田尾優子さんを判定ながら破って優勝を飾られました。


なお、この当時は正月以外、年中無休で柔道に取り組んでおり、平日は午後6時から9時半まで、週末は午後2時から6時まで稽古に充てていたそうです。


また、東海大第五高校の中村行成氏の得意技である掬投が特に気に入っていたそうです。

小学校の頃から引っ込み思案で思ったことをなかなか口に出せなかったが、福岡国際で優勝した際に一部マスコミから愛読していた漫画のYAWARA!の主人公に引っ掛けて「ヤワラちゃん」と呼ばれるようになってからは、自分の思っていることを躊躇わずに発言できるだけの強い気持ちが持てるようになったそうです。

高校時代


亮子さんは1991年4月にはご本人柔道を始めた時から面倒を見てきた鎌田智博氏が柔道部監督を務める福岡工大附属高校へ進学されます。

そこで軽量級の元世界チャンピオンである柔道部部長の園田義男氏と、1976年モントリオールオリンピック中量級金メダリストであるコーチの園田勇氏の園田兄弟からも指導を受けることになられました。

高校1年の時には6月の体重別準決勝で筑波大学1年の永井和恵さんを掬投で破ると、決勝では同大会の6連覇を狙う江崎に対して後半に攻め込まれたものの、出足払で相手を崩したのが評価されてか、3-0の判定で優勝して前年の雪辱を果たすとともに、世界選手権代表に選ばれました。

7月にバルセロナで開催された世界選手権では、2回戦で世界ジュニアチャンピオンであるキューバのレグナ・ベルデシアさんに有効を取って優勢勝ちするなどして勝ち進むも、準決勝でブリッグスさんに得意の寝技に持ち込まれて上四方固で一本負けされます。
3位決定戦ではポーランドのマウゴジャータ・ロシュコフスカさんを大外刈で破り3位になられました。

10月には今大会から新設された国体少年女子の部に柳川高校2年の佐野奈津子さん、3年の国吉真子さんとともに福岡県チームの一員として参加すると、決勝で一本勝ちするなどしてチームの優勝に貢献されました。

11月には大阪で開催されたアジア選手権に出場するも、初戦で中国の湯礼紅さんに背負投と大外刈で有効2つを取られて敗れたのみならず、右足の靱帯まで損傷されます。

周囲から敗者復活戦は棄権を勧められたが、園田兄弟から「足を引きずってでも戦え」と檄を飛ばされたために試合に出て勝ち続けると、3位決定戦では韓国の尹榮娥さんに3-0で判定勝ちして3位に入賞されます。

ケガを押して出場した12月の福岡国際では決勝で江崎さんとの対戦になり、両者注意の後、江崎さんに場外際に追い込まれ動きが止まったため赤畳5秒ルールの警告が与えられるかとも思われたが流されて、終了間際に内股で効果を取って辛うじて勝利を収められました。

なお、この後の首脳陣による特別座談会では女子強化部長の中村良三氏が、武蔵大学教員の山口香さんの話として、江崎さんも今大会の決勝で肩を負傷したのに、なぜみんな亮子さんのケガばかり気遣うのか疑問を投げかけていた点に言及した。


続けて中村氏と強化副部長の柳沢久氏が、こんなことをしていたら作新学院高校時代の江川卓のように浮いてしまい、他の選手が亮子さんから離れていってしまうと憂慮の念を示したそうです。

1992年2月に亮子さんはドイツ国際に出場すると、決勝で地元ドイツのドルテ・ダンマンさんを内股で破ったのをはじめ、オール一本勝ちで優勝されました。

2年の時には5月の体重別決勝で埼玉大学1年の長井淳子さんと対戦すると、先に小内刈で有効を取られるも、その後すぐに掬投で有効を取り返して、3-0の判定で優勢勝ちして大会2連覇を達成されました。

こうして亮子さんはバルセロナオリンピック代表に選ばれました。

バルセロナオリンピック出場


8月のバルセロナオリンピックでは初戦でキューバのアマリリス・サボンさんと対戦すると、効果を先取されるも大内刈や小内刈などで有効2つと効果1つを取り返して初戦を突破されます。


続く2回戦ではブラジルのアンドレア・ロドリゲスさんから有効2つを奪った後に崩上四方固で破ると、準々決勝では李愛月さんに内股で一本勝ちします。

準決勝では前年の世界選手権で敗れたブリッグスさんを素早い動きで翻弄して攻め立てると、ブリッグスさんはその動きについて来れずに次々と反則ポイントが与えられたのみならず、右肩まで脱臼したそうです。

その後も容赦なく攻め続けると終盤にはブリッグスさんを反則負けに追いやった。

決勝では世界チャンピオンであるフランスのセシル・ノバックさんと対戦します。

開始30秒過ぎに素早い動きで相手を前方に引き落とすが、その際に両足を掴まれて双手刈で効果を取られます。

その後、内股や小内刈で盛んに攻め込むもののポイントは取れず、3分過ぎに支え釣り込み足を踵返で切り返されて2つ目の効果を取られると、反撃及ばず敗れて銀メダルに終わりました。

 こうして亮子さんはオリンピックの柔道競技においては16歳331日の史上最年少メダリストになりました。

ノバックさんはフランス女子ナショナルチームの監督である村上清氏に亮子さんの弱点は技を仕掛けて戻る際に重心がふらつくところだとの指摘を受け、この試合でもそのアドバイスに従ってポイントを稼いだそうです。

試合後にノバックさんは、「田村さんは小さすぎる、勝てるわけがない。田村は16歳と若くきゃしゃだ。全く怖くなく、初めてだったが勝つ自信があった」と挑発的なコメントを残したそうです。

一方で敗れた亮子さんは、「ノバックさんは(2階級上の)56 kg級の選手のように懐が深く力が強かった。あともう少しがんばったら金メダルがもらえたのに」と悔しさを噛み締めて語ったそうです。

なお、ブリッグスさんからは試合後に「これからはあなたの時代」との言葉を贈られたそうです。


アトランタオリンピックまで

オリンピック後最初の大会となった12月の福岡国際では、準決勝で昨年のアジア選手権で敗れた湯さんを払腰で破って雪辱すると、決勝でもフランスのシルビー・メルーさんを背負落一本で下してオール一本勝ちで大会3連覇を達成されます。

1993年の2月にはフランス国際に出場して、3回戦でフランスのフレデリク・ジョシネさんに効果で勝った以外は、決勝でサボンさんを崩上四方固で破ったのを始め全て一本勝ちして優勝を果たされます。

3月には全国高校選手権に出場して、準決勝までオール一本勝ちで勝ち上がり、決勝では土浦日大高校1年の磯崎祐子さんに3-0の判定勝ちで優勝を飾られます。

3年の時には5月に上海で開催された東アジア競技大会の決勝で、地元の湯さんから背負投で有効を取って優勝を果たされます。

7月の体重別では決勝で長井さんを3-0の判定で破り世界選手権代表に選出されます。

7月には団体戦の金鷲旗にも福岡工大附属高校の一員で参加して、1 - 2階級上の選手を相手に3戦全勝されます。

10月にカナダのハミルトンで開催された世界選手権では、準決勝でイタリアのジョバンナ・トルトラさmmを出足払で破ると、決勝でも李愛月さんを盛んに攻め込んでポイントこそ取れなかったものの3-0の判定で破り、史上最年少の18歳1か月で世界チャンピオンになられました。

この際に、「世界選手権とか世界的な大会で優勝がなかったから最高にうれしい」と語られています。

続く国体少年女子の部では、柳川高校2年の阿武教子さん、三池高校2年の杉野美紀子さんとともに福岡県チームの一員で参加して、オール一本勝ちを成し遂げてチームの優勝に貢献されています。

12月の福岡国際では決勝でロシアのタチアナ・クフシノワさんを合技で破り優勝を果たされます。

大学生時代

1994年に田村涼子さんは、この年から女子柔道部を新設することになった帝京大学の文学部国文学科へ進学されました。

監督は東福岡柔道教室時代の恩師だった稲田氏が務めることになった。入学の際には、「先生方から色気づいたら弱くなると言われているんで柔道一筋にやりたい」と決意を語ったそうです。

5月の体重別決勝では、ノバックを育てた村上さんが帰国後に新たな打倒田村さんの秘密兵器として養成してきたミキハウスの衛藤由佳さんを大外刈と袖釣込腰の合技で破って優勝し、アジア大会代表に選ばれます。

10月に広島で開催されたアジア大会では、決勝で李愛月さんを3-0の判定で破って優勝を果たされます。

11月には強化選手選考会に出場して、決勝で長井から効果を取って優勝を果たされます。

12月の福岡国際では決勝で長井さんから有効を2つ取って優勝して、バルセロナで敗れてから続いてきた連勝記録を50に伸ばされます。

1995年5月の体重別では、決勝で同じく長井さんから大外刈で有効を取り優勝して世界選手権代表に選ばれました。

8月に地元の福岡で開催されたユニバーシアードでは、決勝でサボンさんを払腰で破ったのをはじめ、オール一本勝ちで優勝を果たされます。

10月に幕張で開催された世界選手権では、3回戦でサボンさんから小内巻込で技あり、準々決勝でもジョシネさんから効果を取って勝つと、準決勝では映画ホーム・アローンに出演したこともある女優で、なおかつ前年の世界ジュニアチャンピオンでもあるアメリカのヒラリー・ウルフさんを開始早々の体落で破り、決勝では前回大会に続く対戦となった李愛月に対して、先にポイントを取りながらなお攻め続け、ラスト1秒に双手刈で一本を取って優勝して、大会2連覇を達成されます。

12月の福岡国際でも決勝でサボンさんを縦四方固で破るなどオール一本勝ちで優勝を果たされます。

1996年3月の体重別では決勝で長井さんから効果を取って優勝して、アトランタオリンピック代表に選ばれました。

7月のアトランタオリンピックでは、サボンさんが強敵になってくるものの田村のナンバー1の座は揺るがず、今度こそ金メダルと期待されました。

 その初戦ではベラルーシのタチアナ・モスクビナさんを体落、2回戦ではホンジュラスのドラ・マクドナルドさんを背負投、3回戦ではトルトラさんを袖釣込腰の技ありでそれぞれ破ると、準決勝では最大のライバルと目されたサボンさんを背負投で破った。そして決勝ではワイルドカードで出場してきた全く未知の相手である北朝鮮のケー・スンヒさんと対戦することになった。

その決勝ではケーが暗黙のルールを破って柔道衣を左前に着ていたために思うように柔道衣を掴めず攻めあぐねたそうです。

また、ケーの力強い組み手の前にいつものように素早い動きで相手を撹乱するところまで持っていけず膠着状態となった。

そして試合終盤には払腰を小外刈で切り返されて効果を取られると、その直後の背負投を偽装攻撃と見なされて指導まで与えられて敗れ、前回大会に続いて銀メダルにとどまりました。


この敗戦によって、前回のバルセロナオリンピック決勝で敗れてから続いてきた連勝記録も84でストップしたそうです。

なお、アトランタで使用された畳は投げられて勢いがついた場合は1m近くも滑る、素人が製造したかの如き畳と酷評されるような代物であったそうですいう。そのため、体の小さい田村亮子さんは相手にコントロールされた場合、思い切った技を仕掛けることができなかったのが敗因の一つだったと全日本女子代表チーム監督の野瀬清喜氏は述べています。

本人は試合直後のインタビューで次のように語ったそうです。

「なぜか決勝戦だけ、気合が入らなかった。集中力がなかった」「みんなが応援してくれるから絶対に勝たなきゃいけない。それで硬さがあったのかもしれない。でも人間ですよね。私も人間だなと思いました。人間でよかった」。

何れにせよ、今回の敗戦は田村亮子にとってあまりにも衝撃的で、小学校2年の時に柔道を始めて以来培ってきた喜びや勇気、自信が根本的に打ち砕かれた気分に陥り、次は2000年シドニーオリンピックなどと軽々しく口にはできない状態が暫く続いたそうです。

そんな時、親交のあった1988年ソウルオリンピック(公開競技)61 kg級銅メダリストの持田典子さんから渡された手紙にあった「神様は乗り越えられない人には試練を与えない」との文面に感銘を受けたそうです。

「柔道をやれるときは限られる。ここでやめたら後で悔やむだろう。自分は試練を乗り越えられる。わずかな可能性を信じて努力してみよう。」と思い至り、立ち直るきっかけをつかめたそうです。 

さらにその後のインタビューでは次のように述べたそうです。

「アトランタでは準決勝でサボンさんに一本勝ちした時、これでもう優勝は決まったようなものだと自信満々になったのは間違いだった。これを教訓にそれからは対戦が予想される全ての選手をライバルと思うようになった」「(オリンピックで)金メダルを取るまで私はあきらめない。自分が完璧になったとき、最高の喜びが待っていると思います」

シドニーオリンピックまで


オリンピック後最初の大会となった12月の福岡国際では、準決勝で李愛月さんに2-1の判定で辛うじて勝利すると、決勝ではサボンさんに注意で勝って優勝した。

1997年1月には大阪で初開催された女子の国別団体世界一を決めるワールドカップ団体戦 に、日本チームの一員として準決勝のキューバ戦のみに出場して、そこでサボンさんを背負投の有効で下して勝利したが、チームは敗れて3位になったそうです。

5月の体重別では長井さんから燕返で有効を取って勝ち、世界選手権代表に選出されました。

10月にパリで開催された世界選手権では、準決勝で北朝鮮のペ・ドンスクさんを出足払と背負投の合技で下すと、決勝でもサボンから内股で有効を取って破り大会3連覇を達成されます。

12月の福岡国際では決勝で長井さんを指導で下して優勝されます。

社会人と大学院生に

1998年には帝京大学を卒業すると、田村亮子さんはトヨタ自動車に入社されました。

また、日体大の大学院にも進学することになった。

当初は就職せず帝京大学の大学院に進学する予定もあったが、そうしなかった点については、「自分の人生の中で社会人の経験をしておく必要がある。人生においていろいろなことを吸収したい」からだと説明されたそうです。

5月の体重別では決勝で住友海上の真壁友枝さんから体落で有効を取って優勝しなす。。

9月にミンスクで開催されたワールドカップ団体戦では、準決勝でフランスチームのジョシネさんと対戦して、相手の大内刈を返して有効を取り勝利したが、チームは敗れて最終的に5位にとどまりました。

11月の全国女子体重別では決勝で長井さんから警告を取って優勝されます。

アジア大会が12月にあったために1か月先延ばしになって開催された1999年1月の福岡国際決勝では、アジア大会で優勝して勢いづく真壁さんを小外掛一本で破り優勝されます。

5月の体重別では決勝で長井さんを3-0の判定で下して世界選手権代表に選出されました。

10月にバーミンガムで開催された世界選手権では、準決勝で韓国の朴成子さんを注意で破ると、決勝ではサボンさんを3-0の判定で下して大会4連覇を果たされます。

12月の福岡国際では決勝でサボンをさんを3-0の判定で破り、今大会10連覇を達成した。この際に次のように語ったそうです。

「90年代を制覇し続けられたことは本当にうれしい。勝つことは難しい。勝ち続けることはもっと難しい。しかし、今日の経験は、シドニーで必ず生きる。今まで経験してきたことを発揮するときがいよいよ来たんです。やるしかない。」。

2000年4月の体重別では決勝で東和大学4年の濱野千穂を注意で破り、52 kg級の山口香さんに続いて今大会での10連覇を達成して、シドニーオリンピック代表に選出されました。


9月のシドニーオリンピックでは、「最高で金(メダル)、最低でも金(メダル)」という言葉と共に臨まれます。

しかし、初戦では中国の趙順心さんと対戦するとペースを掴めずに終盤まで縺れ込み、旗判定になったら負けにされる可能性もあったものの、終了1秒前に内股返の有効で辛うじて勝利されます。

続く準々決勝ではウクライナのリウドミラ・ルシニコワさんに払腰で一本勝ちします。

準決勝では北朝鮮のチャ・ヒョニャンさんを攻め立てるもポイントは取れず、両者注意を与えられるが3-0の判定で破られます。

そして決勝ではロシアのリュボフ・ブルレトワさんを開始38秒の内股一本で破り、自身初のオリンピック金メダルに嬉し涙を流されました。


また、初のオリンピック金メダル獲得を「ようやく初恋の人に出会えた」と表現されています。

さらにこの金メダルが評価されて、福岡県では初となる県民栄誉賞を受賞しされています。

なおこの時点では、将来結婚したら専業主婦に納まるのが理想で、自分の子供には柔道をやらせたくないと語っていたそうです

(後に結婚して男児2名をもうけたが、両者には柔道でなくアイスホッケーに取り組ませている。また、参議院議員を一期務めた後は専業主婦になっておられます)


アテネオリンピックまで


12月の福岡国際では、決勝で濱野さんを警告で破り大会11連覇を達成されます。

2001年4月の体重別では、決勝で濱野さんに総合勝ちして大会11連覇を達成するとともに世界選手権代表に選ばれます。

7月にミュンヘンで開催された世界選手権では、2週間前に右膝の内側側副靱帯を断裂しながらも敢えて参戦されます。

その準決勝ではイタリアのジュゼッピーナ・マクリさんを内股一本で破ると、決勝では北朝鮮のリ・キョンオクさんと際どい試合になったものの2-1の判定で下して、ケガを抱えながらも大会5連覇を達成されます。なお、12月の福岡国際は12連覇が懸かっていたものの、出場しなかったそうです

2002年4月の体重別では、初戦で土浦日大高校2年の福見友子さんに大内刈で効果を取られて敗れ、アトランタオリンピック決勝で敗れてから続いていた連勝記録が65でストップします。

また、日本選手には1990年の体重別準決勝で江崎さんに敗れて以来12年ぶりに敗れ、これによって対日本選手の連勝は98、国内で開催された大会での連勝記録は121でストップすることとなったそうです。

後にこの敗戦について、次のようにコメントされているそうです。

「あの試合(4月)を振り返ってみると、柔道以外のこと、それは肖像権の問題ですが、それに頭が行ってしまい、あの時点で誰と対戦したとしても、いい結果は得られなかったと思います。ですから、敗戦というより自分の問題であって、あまり気にはしていないんです。」「あの敗戦よりももっと苦しくてひどい敗戦を、バルセロナ、アトランタで経験しています。だから、あの敗戦はそういうものとは違います」[。

12月には2年ぶりに福岡国際に出場すると、準決勝では体重別で敗れた福見さんから効果を取って勝ち雪辱を果たされと、決勝でもミキハウスの北田佳世さんから小内巻込で有効を取り、この大会12度目の優勝を飾られます。

なお、福岡国際に出場したのは結果として今回が最後となったそうです。

田村亮子さんが今大会で初優勝した時から常に実況を続けてきたRKB毎日放送アナウンサーの隈部崇之氏は、田村さんは動きが速すぎるので一瞬たりとも目が離せず、他の選手を実況している場合と違い、選手の経歴やエピソードが書かれたメモを見る余裕さえ与えなかったと語っているそうです。

2003年4月の体重別では準決勝で福見さんに小外刈で一本勝ちすると、決勝でも北田さんから背負投で有効を取って優勝を果たして、世界選手権代表に選ばれます。

9月に大阪で開催された世界選手権では準々決勝までの3試合を一本勝ち、準決勝でも中国の高峰さんから効果と指導を取っても攻め続け、ラスト1秒の背負投で一本勝ちすると、決勝ではジョシネさんに指導3で優勢勝ちして大会6連覇を達成されます。

12月1日にはプロ野球のオリックス・ブルーウェーブ所属の選手である谷佳知氏と結婚した。20日には結婚披露宴を行い、日本テレビで生中継されました。

2004年4月の体重別では、準決勝で藤村女子高校3年の山岸絵美さんを払腰一本で破ると、決勝でも北田さんから指導2を取って優勝を果たしてアテネオリンピック代表に選出されます。

新たに「谷亮子」として臨んだ8月のアテネオリンピックでは、夫で同じくアテネオリンピックの野球競技日本代表選手である谷佳知氏をはじめ多くの人々による応援の中、試合に臨まれます。

大会1か月前に左足首を傷めたことからケガの影響が懸念されたそうです。しかしながら、初戦で地元ギリシャのマリア・カラヤノブルーさんを合技、準々決勝でアルジェリアのソラヤ・ハダドさんを大外刈、準決勝でルーマニアのアリナ・ドゥミトルさんを合技で破るなどオール一本勝ちで決勝まで進まれます。

決勝ではジョシネさんと対戦すると、開始早々に大外刈で効果、その直後には背負投で有効を奪われます。さらに終了17秒前には大内刈で技ありを取って快勝して、オリンピック2大会連続の金メダルを獲得されます。

女子競技における日本選手のオリンピック連覇は初めてのことであったそうです。

試合後のインタビューでは「シドニーの時よりも何倍も嬉しいです」と涙を流して喜ばれています。

なお、今回の勝利で日本の女子の既婚選手では初めての金メダル獲得となったそうです。

また、夫の谷佳知氏氏も野球競技で銅メダルを獲得したことで、夫婦揃ってのメダリストともなられます。

北京オリンピックまで


2005年4月の体重別では準決勝で福見さんに内股すかしで一本勝ちすると、決勝では北田さんに指導1で勝って世界選手権代表に選出されるが、GSに入って僅か27秒で守りに入っていたわけでもない北田さんのみに指導が与えられた点は疑問の残る裁定と報じる向きもあったそうです。

しかし妊娠のため7連覇のかかっていた世界選手権は欠場します(北田さんが代役出場)[40]。 そして12月31日には長男を出産されます。

復帰後初の大会である2007年4月の体重別では、準決勝で山岸さんから効果を取って勝つが、決勝では福見さんに出足払で有効を取られて敗れます。

しかし、ここ2年間ではこの大会しか出場していなかったにもかかわらず、過去の実績が考慮されて世界選手権代表に選出されたそうです。

大会後の強化委員会では48 kg級の代表選考を巡って約2時間にも渡って紛糾したそうです。

結果として、ここ2年間国内外の大会に出場していなかったものの、過去の実績を考慮されて谷さんが代表に選ばれた。

今回の世界選手権では北京オリンピックの出場権を得るために5位以内に入る必要があり、その目的を達成するためにも計算できる谷さんということになった。

この際に谷自身は、「ああ終わったなと思ったのに、選ばれちゃった。私はいつまでやったらいいんですかね」と発言していたそうです。その一方で、あくまで北京オリンピックが目標だったので、じっくり体作りをするために2007年もできれば休んでおきたかった。なので、今回の敗戦も「万全じゃなかったから仕方ない」と冷静に構えていたそうです。

谷さんを選出した点について強化委員長の吉村和郎氏は、「ただ世界選手権に出るだけでいいなら、若手を出す。しかし、目指すのはあくまでも金メダル。それを考えると谷のほうが金メダルに近い。われわれの選考を信じてほしい」「世界で戦うということは想像を絶する重圧と戦うこと。(世界選手権で) 負けてよくやった、ということはない。勝ち方を知っているベテランならメダルを確実に獲ってくれる」「谷の動きは同じ階級の選手にはまねができないし、このままで終わるヤツではない」 と選考理由を述べた[78][81]。また、吉村は大会3か月前のインタビューで、「若手3人(福見友子、三井住友海上の山岸絵美、渋谷教育学園渋谷高校の中村美里)の力ではまだ谷に追い付き追い越すのは難しい。例え谷に勝ったとしても、彼女たちが世界で戦えるのかという話になる。やはり大方の見方では(代表は)谷になるだろう」とも語っていたそうです。

勝利しながらも代表に選ばれなかった福見さんは、「悔しいけどコーチの方々がそう判断したのなら仕方ない」と語った。また、強化委員の1人であり、筑波大学で福見を指導していた山口香さんは、「(強化委員による)多数決なら(代表選出は)微妙だった。トータルではまだ認められない部分がある、と本人に伝えます」とコメントしたそうです。しかし、山口さんはこの代表選考にどうしても納得がいかず、スポーツ仲裁裁判所に提訴することも考えていたそうです。

一方、谷は後のインタビューで、「確かに彼女(福見)は国際大会で活躍していましたけど、私にはそれまでに積み上げてきた実績がありました。なんというのかな、当時の国内大会では、優勝する選手というのが毎年異なっていた。福見選手は、翌年の北京五輪予選でも結局決勝まで残れなかった。世界を相手に戦うという点においては安定感が兼ね備わっていなかった。だから、リオデジャネイロ世界選手権も北京五輪も代表には私が選ばれたのではないでしょうか。」「(ライバルと思える選手がいなかったからこそ)私が一度や二度負けたぐらいで代表から落選するはずはないという考えが私自身の中にあったのは事実です。」との見解を示したそうです。

外部からこの選考を批判する声も少なくなかったが、当時、雑誌近代柔道の編集長を務めていた桐生邦雄氏は、今大会が「代表選手選考最終選考会」とテレビや新聞で喧伝されていたことから、一般人のみならず、柔道に詳しくないマスコミ関係者にも、今大会で勝った選手が代表に選ばれるという先入観を持たせてしまったのが問題であると指摘したそうです。

続けて、強化委員会は代表選考にあたっては、今大会を始め、講道館杯や冬季ヨーロッパ遠征における国際大会など選考対象となる大会をあらかじめ指定しており、今大会の結果のみで代表を決めるという申し合わせはしていない。加えて、指定された大会の成績以外に「これまでの実績」も加味された上で総合的に判断して代表を決定するという基準を設けている以上、今回の代表選考も特に問題はないとの見解を示した。さらに続けて、柔道の選考方法は外部からは非常に理解されにくいものの、対人競技である関係上、陸上競技や競泳などと違って客観的な記録を基準にした選考方法を採用できない側面を有している。しかしながら、誤解をできるだけ招かないように改善する余地は残っているとも付け加えたそうです。


 9月にリオデジャネイロで開催された世界選手権では序盤から強豪との対戦が相次ぐ厳しい組み合わせとなりましたが、谷亮子さんは3回戦でジョシネさん、準々決勝で中国の呉樹根さんに対してGSまでもつれこむもののそれぞれ効果と指導1を取って下すと、準決勝ではドゥミトルさんから大外刈で技ありを取り、決勝でもキューバのヤネト・ベルモイさんが朽木倒にきたところを払腰で切り返して有効を取って優勢勝ちして、2大会ぶり7度目の優勝を飾られました。

2008年には北京オリンピックへの出場の意欲を見せ、4月には選抜体重別に出場されました。

準決勝で山梨学院大学2年の浅見八瑠奈さんを指導1で破ったのち、決勝戦で山岸絵美さん相手に先に送足払で効果を取るものの、その後、巴投と大外返で有効2つを取られて逆転負けを喫したが、これまでの実績からオリンピック代表に選ばれたそうです。

女子代表監督の日蔭暢年氏は、「谷さんはディフェンスがよく、ディフェンスからのカウンターも狙える試合巧者。これは他の選手と比べて際立っているという判断で代表に選出した。決勝で敗れたが、コーチ陣の見解は、『ここは谷』で一致した」と選出理由を説明しました。

一方、谷が2年連続決勝で敗れながらも代表に選出されたことから、昨年同様に物議を醸し出すことになり、世間からはもっと透明性のある選考を望む声が噴出したそうです。

強化委員の山口さんは、世間も納得する明確な選考方法として、ポイント制度の導入を提案した。各大会の付与ポイントをあらかじめ公表しておけば、選考レースは一般人にも一目瞭然となり、誤解が減る結果につながる。「今回が、国内で代表を選べる最後になるかも。最終選考会で勝てない代表を、五輪で勝たせることができるのか。それは強化体制の問題」と山口は語った[88][89]。また、柔道サイト eJudoは、「全柔連は選抜体重別を数ある選考大会のうちの一つと位置づけているが、その一方で最終選考会という冠をも付けている。そうである以上は、この大会で敗れた選手を選考することに世間は決して納得しないだろう。にもかかわらず、わざわざ誤解を招く要素を声高に宣伝していることに、選手第一ではない外部の事情が垣間見みえる」とも指摘したそうです(なお、国際柔道連盟は2009年から世界ランキング制度を本格的に導入して、各階級における選手間の序列を明確化しました。このランキングに基づいて、オリンピックの出場資格を得られる選手や国際柔道連盟主催の国際大会におけるシード選手を決定することになったそうです。また、女子柔道強化選手への暴力問題を受けて、2014年からは国内でもポイント制度を導入することが決まりましたた。しかし、このポイント制度は「あくまで参考とする一つの指標」であって、最終的には強化委員会の判断によって代表選手が選考されるとしている)

北京オリンピック


夏季大会は5大会連続出場という、日本選手の最多連続記録を更新して臨んだ8月の北京オリンピック柔道競技では柔道競技初日に登場されました。

その初戦ではアメリカのサヤカ・マツモトさんを大外刈の有効、2回戦では地元の呉樹根さんをGSに入ってから小外刈の技あり、準々決勝ではアルゼンチンのパウラ・パレトを指導1でそれぞれ破った。

そして、準決勝ではドゥミトルさんと対戦することになった。互いに組み手を嫌って牽制し合うなどして指導2となり、膠着状態となった残り33秒にスペイン出身の主審が谷さんにだけ指導3を与えると、谷さんはあからさまに不服そうな表情を浮かべるが、反撃むなしく試合終了となってオリンピック3連覇はならなかったそうです。

外国選手に負けたのはアトランタオリンピックの決勝以来12年ぶり、ヨーロッパの選手に負けたのはバルセロナオリンピックの決勝以来16年ぶりのことだったそうです。

対外国選手の連勝記録も61でストップました。

その後の3位決定戦ではロシアのリュドミラ・ボグダノワさんに内股で一本勝ちを収めて、オリンピック5大会連続のメダルとなる銅メダルを獲得しました。

なお準決勝に関して、全柔連強化委員長の吉村和郎氏や女子代表監督の日蔭暢年、女子代表コーチの園田隆二氏などからは、試合終盤になって谷にだけ指導3が与えられたことに疑問を呈する声が上がったそうです。

これに対して、オリンピックにおける日本女性初の審判員として今大会に参加した天野安喜子さんは次のような指摘を行ったそうです。

「あの指導は勇気ある正しい判断であり、あの場面における指導は決して間違いではなかった。国内の大会なら終盤は流してGSにしてしまう傾向もあるが、インターナショナル審判員の場合は、審判員としての技量をこのような場面でこそ見られているという意識が働くので、例え残り10秒であっても反則がより妥当とみなせる側にきっちりと反則を与える。それがインターナショナル審判員としてのプライドでもある。

谷亮子さんは2011年8月には国際柔道連盟から女子柔道の史上最高選手に選出され、2013年8月には国際柔道連盟の殿堂入りを果たされています。

亮子さんの柔道スタイル



田村・谷亮子さんは身長146 cmと小柄なこともあり、もともとは背負い投げ、そして小内刈、大内刈などを得意技としていたそうです。

しかし、背負いが警戒されることをうけ、他の技も習得し頻繁に出すようになられました。

大外刈、内股、体落、掬投、小外刈と多彩で、この技の多さが一つの武器となっており、選手キャリア中盤以降の時期は背負投げ以外の技で勝つことが多かったそうです。

また、抑込技や腕挫十字固などの寝技で勝利することも少なくなかった。全日本代表チームで谷さんのコーチを務めていたこともある広島大学教授の出口達也氏によれば、谷の考え方には技という概念はなく、一連の素早い動きの中に技が含まれているに過ぎず、相手に反応できれば結果的にどんな技になっても構わないそうです。

駆け引きがうまく、試合の組み立ても秀逸でした。

組み手に強く、相手にいいところを取られたら瞬時に技を掛けながら外すなど、危機管理能力が桁外れに高い選手である。

判定で負けることはまずないそうです。

組み際や相手が立ち上がろうと油断した瞬間を逃さない。なお、1999年あたりからは従来のように絶妙なタイミングから相手を投げるスタイルに限界を感じて、それを補うためにより一層のパワーアップ及びスピードアップの向上に努めた。かくして、全身反応時間の更なる高速化とパワーでも外国選手と太刀打ちできるだけの筋力を獲得した。アテネオリンピックで女子代表チームのコーチを務めていた古賀稔彦氏は「こんな選手は2度と出てこない」と最大級の賛辞を贈っている。

1992年のバルセロナオリンピックに続いて1996年のアトランタオリンピックでも僅かな差でありながら敗れた後に、世界選手権を含めた他の全ての大会に勝ちながらなぜオリンピックのみは勝てないのかと思い巡らせた結果、負けた試合を精査してそれを修正するよりも、むしろ勝った試合を徹底的に分析して勝ちパターンの把握に努め、それを揺るぎないセオリーにまで高めるべきことに気づかれたそうです。

また、自らをコントロールできる強さを身に付けるために、オリンピックや世界選手権の2か月ほど前から毎日のように「今日が試合当日」と思い聞かせて一日を過ごすことにしていたので、自らを律して練習に取り組むことができ、普段と同じ領域から試合当日へ入っていけたそうです。

なお、小学生の時は試合で負けた場合でもそれで終わりにせず、直ちに道場に戻って次に対戦した時には新展開で勝つイメージを作るための練習を行うことになっていた。

そのような経緯もあってこの時代すでに、「負けて学ぶことは少ない。勝ってさらに高い目標を掲げる」という基本思考が形作られていたそうです。

今までに負けた試合は10試合ほどであり、寝技ではジュニア時代に3回一本負けを喫したことがあるが、立ち技では一度もないそうです。

なお、最大のライバルの1人と見なされていた長井淳子さんは、田村さんがもっとも強かった時期は1995年だったと語っているそうです。

高校時代に指導していた園田兄弟も、田村のピークは1993年と1995年の世界選手権で優勝した時だったと語っているそうです。

 アトランタオリンピック後のインタビューでは対戦が予想される全ての選手をライバルと思うようになったと語っていたが、引退後にはライバルという存在に対して、「私の柔道人生の中でライバルは作れませんでした。国内外でいろいろな選手が台頭しては消えていく中で、ライバルと思える選手はいなかった。」と否定的な見解を示したそうです。

オリンピック及び世界選手権では計9度も優勝しているが、オール一本勝ちで優勝したことは一度もないそうです。しかしそれは一本勝ちが少なかったことを意味するものでは必ずしもなく、大阪世界選手権とアテネオリンピックでは1試合を除いて全て一本勝ちで優勝、さらに他の世界大会でも1試合しか一本勝ちができなかったリオデジャネイロ世界選手権を除けば、どの大会も過半数で一本勝ちを収めているそうです。

21世紀以降、外国人の柔道選手はタックル(朽木倒)を多用する傾向が多く、日本人選手が負ける要因のひとつとなっているが、谷はこれにも対処することが上手く、相手のタックルを避けることが出来、これもオリンピック2連覇を可能にした能力の一つとみなされているそうです。

また、国内でも10年近く無敗を誇っていたが、現役晩年時は出産によるブランクの影響と年齢による動きの衰えも見られるようになっているためか、2007年の全日本選抜体重別選手権では福見友子さんに敗れ、翌2008年の全日本選抜体重別決勝でも山岸絵美さんに敗れています。

まだティーンエージャーのころから常にマスメディアの注目を浴び続け、その中で勝って当然というプレッシャーの中で、長年、モチベーションを維持して頂点に立ち続ける精神力も桁外れていたそうです。


若い頃からインタビューの受け答えがしっかりしており、記者にも常に笑顔で対応し、感謝の言葉を忘れないなど、マスコミへのサービス精神が旺盛である。またよく「○連覇します」と自身を追い込んだ発言をし、そしてそれを有言実行し続ける強い精神力を持っておられました。


消しゴム版画家のナンシー関さんは、1995年噂の真相に連載されたコラム内で「10年後にヤワラちゃんは選挙に出ていると思う。」と予想していたが、実際には上記のとおり2010年に行われた参議院選挙に民主党から出馬して当選し、関の予想は15年越しで当たったこととなったそうです。


 
 

田村・谷亮子さんの受賞歴

受賞
1993年度JOCスポーツ賞優秀賞
1995年度JOCスポーツ賞最優秀賞
1995年 福岡県 県民スポーツ栄誉賞
2000年10月3日 銀杯一組(菊紋)
2000年11月6日 内閣総理大臣顕彰
2000年度JOCスポーツ賞特別栄誉賞
2000年 福岡県 県民栄誉賞
2002年度JOCスポーツ賞特別貢献賞
2003年11月3日 紫綬褒章
2004年11月3日 紫綬褒章飾版
2004年 福岡県 県民スポーツ栄誉賞
2007年11月3日 紫綬褒章飾版

谷亮子さんをモチーフとした作品


谷亮子をモチーフとした作品
小さくたってでっかいぞ!(歌:かわさきかつじ)
1996年1月10日にシングルCDとして発売。
「田村亮子」(当時)の固有名詞は登場しないが、谷をイメージした歌詞である。


めぐめぐがすごいと思う柔道家谷亮子さんのこと

1たくさんやりたかったことの中から柔道と決め、世界一の柔道家になられたこと

2自分が言ったことを達成し、自分の能力を高めることが出来る素晴らしい体力・精神力・実行力を持っておられたこと

3女子柔道界を変えることを様々なことを起こされて女子柔道界を変えられたこと


こう振り返ると、ある意味いつも同じ選手のお名前が出てきて、それぞれの方にも田村・谷亮子さんを通して柔道人生があったのだろうと思いました。


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めぐめぐ@日本の女性の人生を記事にして書いています。
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