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第19週 火曜日 スポーツ選手 安藤 美姫


19人目のスポーツ選手はフィギュアスケート選手の安藤美姫さんです。


安藤 美姫(あんどう みき)さんは 1987年12月18日愛知県名古屋市にお生まれになりました。

名古屋市立見付小学校に入学されます。

小学生時代はバードウォッチング部のクラブ活動をしており、「鳥と会話出来る」などと主張しておられるそうです。

8歳の時、友人に誘われ子どものスケート教室に入られます。

このスケート教室入会の直後にお父さんを亡くしておられるそうです。

トリノオリンピックシーズンのショートプログラムではお父さんに捧げる「戦場のメリークリスマス」を選曲され、また愛用しているネックレスのリングはお父さんの結婚指輪で、心の支えにされているそうです。




教室のコーチに勧められて門奈裕子さんが教える名東フィギュアスケートクラブに入会され、翌年には2回転アクセルを、その翌年には3回転サルコウと3回転トウループを習得されます。

11歳の1998年(平成10年)に全日本ノービス選手権Bクラスで3位となり、12歳の1999年(平成11年)の同大会Aクラスで優勝されます。

名古屋市立城山中学校に入学されます。
2000-2001シーズンから小塚嗣彦氏、小塚幸子さんが教えるオリオンフィギュアスケートクラブに移られます。また週末は新横浜の佐藤信夫コーチの元にも通うようになられます。

そして3回転ルッツ-3回転ループを習得し、全日本ノービス選手権Aクラスを連覇、また2つの国際競技会で優勝されます。
2001-2002シーズン、全日本ジュニア選手権優勝、ISUジュニアグランプリ (JGP)もJGPファイナルを含む3戦全てで優勝され、華々しいジュニアデビューを飾る。シニアの全日本選手権でも3位に入ったられました。

2002-2003シーズンのJGPファイナルでは、フリースケーティングで女子シングル史上初の4回転サルコウに成功させます。

そしてこの年安藤さんは中京大学附属中京高等学校に入学されます。

2003-2004シーズンはJGPファイナルで2季ぶりに優勝され、全日本ジュニア選手権では4回転サルコウを成功させ、荒川静香以来史上2人目となる3連覇を達成されました。

全日本選手権では4回転サルコウ、3回転ルッツ-3回転ループ、3回転トーループ-3回転トーループを入れた1クワド6トリプルの構成を完璧に成功させ、村主章枝さん、荒川静香さんらを抑えて初優勝されます。

世界ジュニア選手権2002年大会から毎年1つずつ順位を上げ、2004年大会でついに優勝を果たされました。また世界選手権でも4位と健闘されました。


2004-2005シーズンから参戦したグランプリシリーズ (GPシリーズ)では、スケートアメリカ、NHK杯、中国杯の3戦に出場されます。

NHK杯のフリーの冒頭では3回転ルッツ-3回転ループ-2回転トゥループという女子では最高難易度のコンビネーションを成功させ、GOEと合わせて15.2点という高得点を記録されます。

これは現在でも1度のジャンプでの歴代最高得点であるそうです。

GPシリーズの活躍もあり、1季目ながらGPファイナルに進出し、4位となられます。

全日本選手権では2連覇を果たした。

冬季国体では、安藤を見るために競技会場の収容能力をはるかに超える観客が詰め掛け、入場制限が掛けられたそうです。世界選手権は6位になられました。

また中京大学附属中京高等学校を卒業されます。


2005年5月からアメリカに練習拠点を移し、キャロル・ヘイス・ジェンキンスさんの指導を受けられます。

2005-2006シーズンのGPシリーズはロシア杯とNHK杯に出場しロシア杯ではジェンキンスの下で伸ばした表現力が評価され、演技構成点で以前よりも高い得点を得られるようになり、総合得点ではパーソナルベストを更新されました。そしてGPファイナルでは4位となりました。

全日本選手権では6位に終わったものの、五輪代表選考のポイントでは総合3位となり、2006年トリノオリンピックの代表に選出されました。

トリノでは、前年末に骨折した右足小指が完治しないまま競技に臨まれ、ショートプログラム (SP) 8位と出遅れフリーでは4回転サルコウを回転不足で転倒するなどミスが続き、総合15位に終わられました。



トリノオリンピック後から安藤さんはニコライ・モロゾフ氏にコーチを変えた。モロゾフ氏の指導により食事のメニューも細かくして体を絞り、大人の女性の魅力を出すための表現力を磨き、スピンやステップでも更に得点を稼げるように技術を高められました。

また3月には門奈裕子さんのもとで基礎からジャンプを作り直されてもいます。

スケートアメリカでは、SP、フリーともに3回転ルッツ-3回転ループを決め、ノーミスの素晴らしい演技を披露する。フリーでは技術点で70点を超え、当時の歴代最高得点を記録します。総合得点でもパーソナルベストを約20点更新し1位となり、GPシリーズ初優勝を果たされます。

2戦目のエリック・ボンパール杯では2位となり、GPシリーズランキング1位でGPファイナルへの出場権を獲得されました。

3季連続で進出したGPファイナルでは、SPではパーソナルベストを更新する素晴らしい演技で首位と僅差の2位につけたものの、フリー当日に腹痛をおこし、満足な演技ができないまま5位に終わられました。

そして地元名古屋で開催された全日本選手権では、フリーの演技中に右肩を亜脱臼しながら最後まで滑りきり2位となった。

しかし故障のため日本学生氷上競技選手権大会と、ユニバーシアードは欠場することになった。世界選手権ではSP、フリーいずれもパーソナルベストを更新する会心の演技で金メダルを獲得されました。

こうして安藤さんは伊藤みどり、佐藤有香、荒川静香に次いで日本人歴代4人目の世界女王となられました。



2007-2008シーズン、GPシリーズでは、フリップのエッジ矯正の影響でルッツも安定していなかったため3回転-3回転は回避した。スケートアメリカでは2位となったが、NHK杯はフリーで3度転倒して4位に沈み、GPファイナル進出を逃されます。

全日本選手権ではSP、フリー共に3回転-3回転を成功させ、気迫のある演技で国内選手権ながら総合200点を越え2位となられました。

四大陸選手権で2年ぶりに4回転サルコウに挑んだが、回りきれずに2回転になった。

世界選手権ではSPを前季に使用した「シェヘラザード」に戻して臨まれましたが 8位と出遅れたそうです。フリーは当日の朝、左ふくらはぎを痛め、強行出場したが演技途中で棄権したされました。

この後、怪我や調子の波が大きい自分はリンクに立ち続ける資格がないのではないかと悩み、周囲には「辞めたほうがいいと思う」と漏らしていたそうです。

しかし、モロゾフ氏の慰留や、関係者と話をしていくうちにスケートに向かう気持ちを取り戻し、バンクーバーオリンピックを目標に競技を続けることを決められました。


2008-2009シーズンはすべての試合で4回転に挑む意向を示していたのですが、スケートアメリカはモロゾフ氏のクリーンに滑ることを優先しようという指示で、中国杯では練習不足のため、それぞれ回避したそうです。

中国杯終了後、フリープログラムを『ジゼル』から『交響曲第3番』に変更され、2季ぶりに進出したGPファイナルのフリーでは4回転サルコウに挑戦し、回転不足と判定されたものの片足での着氷に成功しておられます。

SPの転倒などもあり、総合順位は最下位だったものの、自分自身で納得のいく演技ができたと語っておられます。

全日本選手権ではフリー前の6分間練習で村主章枝と衝突する事故があったものの3位に入られます。世界選手権では、SPとフリー共に会心の演技を披露されます。ジャンプで回転不足の判定などがあったものの、技術点のみならず、演技構成点でも高い得点をマークし、総合3位になられ、2年ぶりにメダルを獲得されます。


2009-2010シーズン、ロステレコム杯、NHK杯とGPシリーズで連勝。GPファイナルでは2位に入り、オリンピック日本代表に内定されました。

バンクーバーオリンピックでは、SPとフリー共に安定した演技を見せたが、回転不足などのミスがあり得点はあまり伸びず、5位入賞となられています。
翌月の世界選手権では、SPで冒頭のジャンプを転倒してしまい11位と出遅れるが、フリーではスピンのミスが1つあったものの、それ以外はほぼノーミスの素晴らしい演技を披露し3位に。総合得点でも驚異的な追い上げを見せ、4位となられました。


2010-2011シーズン、中国杯、ロステレコム杯とGPシリーズで連勝されます。

GPファイナルでは、ショートプログラムを『ブロークンソロウ』『エジプティアン・イン・ザ・ナイト』から『ミッション』に変更されます。SPではプログラム変更の影響が出てしまい、転倒などのミスにより5位と出遅れたのですがが、フリーではノーミスの演技を披露し1位となる。しかし総合ではSPの点差が響き5位となられました。

全日本選手権では、SPで首位と僅差の2位につけると、フリーでは会心の演技を披露し1位に。総合でも国内選手権ながら200点を越える得点で1位となり、6年ぶり3度目の優勝を果たした。

この結果により、世界選手権と四大陸選手権の出場権を獲得した。四大陸選手権ではフリーと総合得点でパーソナルベストを更新、総合得点で200点の大台を超え初優勝されます。

当初日本・東京開催予定だったが東日本大震災の為中止、約1か月延期後ロシア・モスクワで代替開催された世界選手権では、SPで首位と僅差の2位となるも、FSで1位となられます。結果総合でも1位となり、4年ぶり2度目の世界選手権優勝を果たされました。

世界選手権を複数回制したことは史上16人目の快挙だそうです。

この試合では、初めてSP・フリー共に全てのスピンで最高評価のレベル4を獲得した。肩の怪我の影響でビールマンスピンができなくなってから苦戦していたレイバックスピンでのレベル4獲得は、トリノオリンピックのSP以来であったそうです。

また、当シーズンのフリーでは全ての試合で1位となられています。

当シーズンは出場した国際大会と全日本選手権を合わせた6戦中5勝を挙げ、競技人生の中で最高の成績を記録されています。


2011-2012シーズンは10月のジャパンオープンのみ出場し、競技生活は休養されたそうです。

元々前シーズンに休養するつもりだったが、1シーズン延期していたそうです。

このシーズンで安藤さんは世界中のアイスショーへ精力的に出演し、特にスターズ・オン・アイスでは佐藤有香さんと共に日本人レギュラーメンバーとして活躍されます。

また、2012年3月11日には、自身が総合演出・企画・構成を務めたアイスショー、リボーン・ガーデンに出演されます。

この企画を行った理由について安藤さんは、2011-2012シーズンの競技生活をしないと決めてから、東日本大震災によって被災してしまった人々に何かできないかと方法を模索しており、単にチャリティーでもアイスショーでもなく、東日本で起こったことを忘れないためのイベントをやりたかった。「リボーン・ガーデン」と題したのは、まさに再生を、前に進んで行くこと、新しく始めることを願ったから、と話されたそうです。

4月に東京で開催された世界フィギュアスケート国別対抗戦にはゲストとしてエキシビションに出演、怪我により個人ナンバーを辞退したキャシー・リード&クリス・リード組に代わり、2つのナンバーを披露した。その一方で、2012年3月、コーチのニコライ・モロゾフ氏に師弟関係の継続を断られたそうです。


2012-2013シーズン、競技への復帰が発表され、GPシリーズには中国杯とエリック・ボンパール杯への出場が予定されていたがそうですが、選手を指導する後任のコーチが見つからないこと、グランプリシリーズに向けての技術的・精神的な調整が間に合っていないことを理由に欠場することを表明されました。

当時安藤の公式フェイスブックには、安藤さんは毎日練習に励んでいたが、後任コーチが見つからないこともあり、このままでは満足する演技ができないと悩み、日本スケート連盟と相談しての苦渋の決断であったこと。一方で安藤さん自身「現役選手として競技生活を終えたい」という気持ちを強くもっており、もういちどゼロから一人のフィギュアスケーターとして、次のチャンスに向けて練習を続ける覚悟でいるということ。事実上2012-2013シーズンの公式試合へ出場しないことなどが併せて発表されたそうです。


2013年1月に所属のトヨタ自動車を退職していたことを発表されます。同年7月1日、テレビ番組でのインタビューにて『4月に長女を出産していたこと』を公表すると共に、「2013年-2014年シーズンを最後に現役を引退する」ことも併せて宣言されました。現役生活の集大成へ向けて「責任を持って頑張りたいので、皆様に温かい目で応援して戴きたい」と最後のシーズンへ賭ける思いも披瀝されました。

2013年7月、所属を新横浜プリンスクラブとし、併せて登録を愛知県スケート連盟から神奈川県スケート連盟に変更することが明らかになった。これにより、2014年ソチオリンピックの出場権を獲得するには、ISU公認の国際大会に出場しミニマムポイントを獲得すること。そして2013年10月の関東選手権、11月の東日本選手権を突破して、全日本選手権に出場する必要が生じた。

2013年9月、ネーベルホルン杯で競技復帰し、2位となった。コーチは一時的に以前仕事をしていたバルテル・リッツォ氏に依頼をし、大会1週間前から練習を始め、大会後に正式にバルテル・リッツォのコーチ就任が決まったそうです。

なお、安藤さんはこの大会でISUの定めるソチ五輪参加必要条件とされるミニマムポイント[47](総得点のうちのTESの部分のみ)2013-2014シーズン基準(女子シングル:ショートプログラムTES20.00,フリープログラムTES36.00)を共に満たした。

2013年12月、ソチオリンピックへの出場を懸けて3年ぶりの出場となった全日本選手権で、ショートプログラムではトリプルトゥーループ+トリプルトゥーループのコンビネーション、トリプルルッツなど、要素を全てミス無く実施し64.87で5位につける。優勝を狙ったフリースケーティングでは当日の朝練習まで「ミスなくきれいに滑ろうか」と迷った末「最後の最後は自分らしく終わりたいと思った。ジャンプの安藤美姫と言われた時の気持ちでやりたかった」と難しい構成を選択した。シングルサルコウ、シングルルッツなどのミスが見られ、フリープログラム単独では9位、総合7位に終わったそうです。

演技終了後のインタビューでは「シーズン当初(スケート連盟から)優勝しか(ソチ五輪への)道はないと言われていた[49]」事を明かされ、オリンピックへの出場権が獲得できなかったことから、大会終了後に現役引退を表明されましたた。

翌日、民放の番組に出演し「ショート(プログラム)の点数を見てオリンピックはないと察した。」と話し、「2日後にはアイスショーの契約が入っている」ことも明かされました。

引退後はプロスケーターとしてアイスショーに出演する傍ら、テレビのバラエティ番組等に出演することもあります。

また、2016年からは振付師としても活動しておられます。


安藤さんは以下の記録を持っておられます。


女子史上初4回転ジャンプ(2002年ジュニアグランプリファイナル フリースケーティング)
新採点システムにおける女子シングル初3回転ルッツ-3回転ループ(2004年スケートアメリカ ショートプログラム)[59]
新採点システムにおける女子シングル初3回転フリップ-3回転ループ(2004年グランプリファイナル フリースケーティング)[60]

また以下の賞を受賞されています。


2005年度名古屋市スポーツ奨励賞
2006年度JOCスポーツ賞 最優秀賞
2006年度名古屋市スポーツ功労賞
2006年度スケーター・オブ・ザ・イヤー(東京運動記者クラブ)
2007年国際競技大会スポーツ功労者顕彰(文部科学省)
2007年度第22回中日体育賞(中日新聞)
2007年度朝日スポーツ賞(朝日新聞)
2009年国際競技大会スポーツ功労者表彰(文部科学省)
2010年度日本スケート連盟年間最優秀選手賞
2011年度スケーター・オブ・ザ・イヤー(東京運動記者クラブ)
2011年度アスリート・オブ・ザ・マンス(米スポーツアカデミーUSSA)
2011年度準アスリート・オブ・ザ・イヤー(米スポーツアカデミーUSSA)
2012年度名古屋市スポーツ功労賞
その他
2007年度バカラ アスリーツ オブ ザ イヤー アワード
2007年度ヴォーグ ニッポン ウーマン オブ ザ イヤー
2012年度ロレアル・エトワール賞
2013年・2014年 ネイルクイーン - スポーツ部門
2014年第31回ベストジーニスト2014 協議会選出部門




めぐめぐがすごいと思う安藤美姫さんのこと

1小さいころにお父さんを亡くされ、そのお父さんへの想いと共に長い競技人生を送られていること。

2様々な怪我やアクシデントに悩まされながらもきっちりダメな年の後は

良い成績に戻されていること。

3自分のしたいようにということを大切にされ、スケーターとしてしたいことをやりきって引退されたこと。

もしサポート頂けたらとても嬉しいです。頂いた貴重なお代は本代にいたします。どうぞよろしくお願いいたします!