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第18週 土曜日 メディアで活躍する女性 五木みどり


18人目のメディアで活躍する女性は女性歌手、タレント、女優、画家の五月 みどりさんです。


五月みどり(さつき みどり)さんは1939年10月21日 に大野フサ子(おおの ふさこ)さんとして東京都江戸川区に8人兄弟の長女(弟4人、妹3人)としてお生まれになりました。その弟さんの一人はプロボウラー、妹さんも女優です。 

お父さんの大野房次郎氏は鹿児島県出身で、江戸川区平井で大野屋精肉店を経営されていました。お母さんは山形県舟形町出身です。お父さんは終戦時に仲間と近所に芝居小屋を建て、昼は肉屋、夜は役者という生活をしていたそうです。


6歳から日本舞踊を始められ、8歳で舞台に立ち、父は芝居に厳しくセリフを覚えられないと学校に行かせてもらえなかったそうです。

歌が好きでラジオの「のど自慢大会」などに出たそうですが成績は振るわず、1956年(昭和31年)、ニッポン放送『ものまねのどじまん』で優勝されます。

そこで審査員だった作曲家の宮城秀雄氏から「歌手を目指さないか」と言われて、修行することになりました、

16歳でキャバレーでの初舞台を踏んだ時「天才少女現る」と話題になりました。その際大野フサ子という本名が地味だと宮城氏が「五月みどり」という名前を考えたそうです。

ちょうどその時季節が5月だったので緑の芽がすくすく伸びるようにと

いうことだったそうです、

五月さん自身もこの芸名を明るく華やかな名前で気に入っているそうです。

1958年(昭和33年)11月、「お座敷ロック」でレコードデビューされます。

しかし3年間売れず、4年目のある日レコード会社の廊下で作曲家の遠藤実から「君に合いそうな曲ができた」、「おひまなら来てよネ~」と遠藤氏がその場で歌い、その時五月さんはビビッと来て「私に歌わせてください」とお願いしたそうです。

こうして1961年(昭和36年)5月、「おひまなら来てね」が発売されます。それまでの歌手にはなかった愛らしくチャーミングな美貌とともに、奇麗な「ちりめんビブラート」を生かしたこの歌は大ヒットとなりました。

翌1962年(昭和37年)には『NHK紅白歌合戦』(第13回)に初出場。

その後も1963年(昭和38年・第14回)、1964年(昭和39年・第15回)と通算3回連続で紅白出場を果たされました。

ビデオリサーチ社発足以後のテレビ番組としては史上最高の視聴率81.4%(ビデオリサーチ社調べ、関東地区。以下同じ)を記録した第14回では自身の「一週間に十日来い」歌唱時に瞬間最高視聴率85.3%を叩き出しておられます。ほか「忙しくても来てね」「明日も来てね」(「来てね」シリーズ)、「温泉芸者」「熱海で逢ってね」(「芸者」シリーズ)などのヒット曲があります。

1965年(昭和40年)に結婚して引退されます。

この期間にお二人のお子さんをお産みになり、ご長男はプロゴルファー、ご長女は歌手になられています。

西川の前妻との子の西川賢(歌手名:山田太郎)の存在や、価値観の違いや社長夫人という立場に耐え切れず、1971年(昭和46年)に離婚されています。

「年の離れた夫は厳しい人でDVなどに発展し約6年で離婚に、その条件が「子供をおいていくこと」だったのでつらかった。子供に会いたくても夜も眠れず、家の近くに何度も行っては泣いて、でも徐々にたとえ会えなくても子供が生きていてくれることが幸せだと思うようになりました」とこのことについて述べておられます。


1970年代以降はタレント、女優としての活動に重心を移されます。

1975年(昭和50年)には主演ポルノ映画『五月みどりのかまきり夫人の告白』(東映)が話題になりました。


その後、五月さんは40歳を過ぎても日活ロマンポルノ作品で主演され、若々しい肉体と大胆な演技で世に衝撃を与えました。

五月は「ロマンポルノのお話をいただき「面白そう」とお受けしました。周囲からは紅白に出た歌手なのにと色眼鏡で見られたこともあります。昔から、面白そうと思ったことはすぐやってみたくなるの。それに過去よりも現在の自分を見てもらいたかった。父は反対すると思いきや、私のヌードポスターを自宅に貼っていました。当時、脱ぐの若い人ばっかりだったので、自分で言うのはなんですが、熟女ブームの先駆けとなったかもしれないと思います。」と述べておられるそうです。


1976年2度目の結婚をされます。2番目の相手は、日本テレビディレクター(当時)だった面高昌義氏で面高氏が、五月がレギュラー出演していた『金曜10時!うわさのチャンネル!!』のディレクターだったことから恋愛に発展し、1976年(昭和51年)に結婚されました。

結婚式での馬車に乗っているシーンは、今でも面高氏の顔にモザイクがかかった状態でよくテレビで放送されるそうです。

奇妙な夫婦として有名で、お互い浮気告白をワイドショーや雑誌で幾度か行っている。

1984年(昭和59年)に離婚。離婚会見に揃って出席し、会見中5度もキスしたシーンも、今でも時折テレビで流れるそうです。

離婚の原因は面高の金銭トラブルによるもので、このために無断で五月の財産を遣い込み、アメリカにあった自宅も手放さざるを得ない状態になってしまったためという。これが無かったら別れる事は無かったと五月さんは

語っておられるそうです。


また1976年(昭和51年)に番組がスタートした『クイズダービー』の初代2枠レギュラーとして出演されます。

勝率は4割6分8厘(平均4勝6敗〜5勝5敗ペース)だったそうです。

レギュラー降板後も度々5枠のゲスト解答者として出演されましたが、出題が五月のレギュラー時より難しくなったこともあり、勝率は2割台に下がったそうです。

また同番組最終回には、出場者(ギャンブラー席)として、初代3枠レギュラーの黒鉄ヒロシ氏、初代5枠レギュラーのガッツ石松氏とともにトリオを組んで登場されました。しかし、賭け方が下手だったこともあり[注 1]、賞金獲得額は0円となっています。

1984年に日本テレビのドラマ『昨日、悲別で』主人公の母親役で出演されます。

これは五月さんが徹子の部屋で最初の離婚による二人の子供とのつらい別れの話をされて、それを自宅見ていて倉本聰氏が執筆中のドラマの主人公の母親役は「この人しかいない」と思って、直接オファーをされて実現したそうです。

倉本氏はその時の五月さんの涙を浮かべながら微笑んで、淡々とつらい体験を語る姿が印象的だったそうです。

1985年(昭和60年)に歌手の立花淳一氏と結婚されます(3度目)。

3度目の結婚もさることながら、相手が20歳年下ということも手伝ってテレビや雑誌が大いに賑わったそうです。

結婚当時、女性週刊誌で『立花淳一にお風呂にいっしょに入ろうと誘われるが、恥ずかしくて裸を見せられない』と言っている。

結婚会見時に「今度こそは添い遂げます」と宣言されたそうですが、2年後の1987年(昭和62年)に離婚されています。

前回の離婚会見とは打って変わり「本当は結婚して2週間後に(立花に)女がいるってわかったんですけど、今度は3度目だし、私も後が無いと思って、何とか我慢しようと思ったんですけど…」と大号泣されました。

その際「1年間男断ちして本業の歌手に専念する」と発言し一筆記した。この時の映像もよくテレビで流れるそうです。ところが離婚直後に立花氏は五月宅から退去する引越し作業中に転倒して複雑骨折し、仕方なくその後暫く五月さんが彼の面倒をみていたという逸話もあります。

立花と離婚した後はマネージャーで五月企画代表取締役の逸見文泰氏から「僕が貴女を一生支える」と告白を受け、事実婚状態にあるそうです。

五月さんはこのことについて、「事実上4番目の夫」「20年ですからね、どの夫たちよりも長い。ちゃんと結婚(入籍など)しないから長続きしているのかもしれない」などと発言し公にしておられます。

1989年(平成元年)には描かれた絵で二科展入選されます。

個展を開催したこともあるそうです、


また、1997年(平成9年) - 2007年(平成19年)に日本テレビで放送された『伊東家の食卓』の母親役でもお馴染みであった。

現在は着物のデザインやティッシュボックスの製作などでも活躍している。

五月さんは80歳を超えた現在でも若い頃と変わらない美貌とプロポーションを維持しておられます。
また静岡県熱海市などに「五月みどり 趣味のギフトショップ ヴィーナス」という雑貨店を構えておらます。






こんな写真集もあるそうです。


めぐめぐがすごいと思う五月みどりさんのこと

1小さいころからお父さんに芝居を叩き込まれ、その後成人されてから女優としても成功されていること。

2面白いことはするという精神で、挑戦されこの分野でも日活ロマンポルノ作品に主演されて素晴らしい作品を残されていること

3歌・映画・テレビ・クイズ番組などなど様々な分野で素晴らしい作品を残されて、男性を愛し、愛され生きてこられたこと。

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