第14週 木曜日 周防内侍
第14人目の作家・歌人は百人一首の歌人周防内侍です。
周防内侍(すおうのないし)は1037年(長暦元年)頃 平 仲子(たいらの ちゅうし)として生まれます。父は「和歌六人党」の一人、桓武平氏の周防守 従五位上 平棟仲。母は加賀守 従五位下 源正職の女で、後冷泉院の女房となり小馬内侍と呼ばれた者だといわれています。
はじめ後冷泉天皇に出仕します。
治暦4年(1068年)春の崩御後は家でふさぎこんでいたといわれていますが、
後三条天皇即位により7月7日から再出仕せよとの命を受け、以後白河天皇、堀河天皇に至る4朝に仕えたそうです。
歌合等にも度々参加し、公家・殿上人との贈答歌も残されています。
『後拾遺和歌集』以降の勅撰集、家集『周防内侍集』等に作品を残しておられます。
天仁元年(1108年)以後、病のため出家、天永2年(1111年)までの間に没したと伝えられています。
逸話
住んでいた家を人手に渡して退去する際、柱に書き付けたという歌が『金葉和歌集』に採られています。
その歌は
家を人にはなちてたつとて 柱にかきつけ侍りける
周防内侍
住わひて我さへ軒の忍ふ草 しのふかたかたしけきやとかな
— 『金葉和歌集』 巻第九 雑部上
寂超、鴨長明、藤原信実[らの残した文献によると、この家は少なくとも建久年間(1190年代)まで荒廃したまま残っていたそうです。
その場所は冷泉堀川北西角で、柱には確かに「我さへ軒のしのふ草」の歌が書き付けてあったという。
一種の旧跡・名所のようになっていたようで、実際に西行もこの周防内侍旧宅の言わば見学ツアーに参加しているそうです。
郁芳門院が主催した根合において周防内侍が詠んだ歌に、
郁芳門院根合に恋のこゝろをよめる
周防内侍 恋わひてなかむる空のうき雲や 我したもえの煙なるらん
— 『金葉和歌集』 巻第八 恋歌下
この歌は良い歌だと評判になったが、一部には煙が死を暗示する不吉な歌だと非難する者もあったそうです。
作者である周防内侍に凶事が起こるのかと思われたが、女院のほうが若くして世を去ってしまった。
『俊頼髄脳』や『袋草子』のような歌論書がこの逸話を取り上げていることから、この歌と女院の早世に因果関係があるかのように人々の噂として語られていたと考えられています。
近世になって百人一首の普及と共に、周防内侍とその歌に関する逸話は大衆化し、彼女の機知や思慮深さを称賛する記述が多く見られるようになり、さらには彼女と藤原忠家をめぐる恋愛譚に発展し、元禄年間に江戸で流行した土佐浄瑠璃の作品『周防内侍美人桜』の成立に至ったそうです。
周防内侍については家集が買えます。
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めぐめぐがすごいと思う周防内侍のこと
1ご両親の(特にお父さん)の血を継いで素晴らしい歌人になられて、多くの歌を残されたこと。
2その歌が残された家が観光名所になって後々まで人々が訪れたりしていること。
3そしてその人物の素晴らしさゆえ江戸に浄瑠璃が作られ好評を博したこと。
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