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第19週 月曜日 歴史上の人物 峯島喜代
19人目の歴史上の人物は明治・大正期の実業家 峯島喜代です。
峯島喜代(みねしまきよ)さんは1833年江戸で代々、質屋「尾張屋」をいとなむ峯島家に生まれました。上には姉がいました。
喜代さんが43歳のときに5代目として家業を継ぐことになります。
1848年15歳の時結婚した夫の茂兵衛氏が1876年に死去し、姉もすでに他界していたためです。
現在も不動産業として続いている同家の言い伝えや、明治・大正期の立志伝の伝えるところでは、喜代さんはきわめて勝気な性格で、商売向きの才気にあふれた人だったようです。
継いだ翌年から、尾張屋を不動産・金融業として再出発させ、巨万の富を築きました。
喜代は、夫の遺産で1877年西南戦争で暴落した公債を大量購入します。
これが当たり、急騰した公債をまとめて売り払うと、東京の土地を買い集めていきます。それは神田小川町、鳥越町、蠣殻町、淀橋町、そして浜町(どこも今でも一等地ばかり)。浜町は現在の歌舞伎町です。
喜代さんが買い集めた土地は、郡部まで合わせると70万坪にものぼったそうです。
そしてこの広大な土地で巨万の富を得て1899年に経営していた尾張屋銀行を株式会社にして、その後尾張信託会社、峯島合資会社を創立しました。
1922年に発刊された『大正成功譚』によると、当時は「日本で三人の女銀行経営者」として知られて貴代さんは有名だったそうです。(ほかのふたりは妹尾商業銀行の妹尾きん子さんと京和銀行の木村ゆう子さん)。
同書では、当時89歳の喜代さんについて次のような表現で紹介しているそうです。
――「歳を食うごとにますますもって気焔鋭くなっていった」「数百万円の大富限者となり、(中略)婆さんは全部の実権を握っている」。
表向きは養子の茂兵衛が継いだものの、喜代が院政をしき、なにかトラブルがあれば判断をくだす。老いても日々、粗末な着物とすり減った下駄をはいて電車を乗り降りしては家業の見回りに余念がない。
1917年喜代さんは東京府に50万もの大金を寄付しました。
今の価値だと40億くらいでしょうか。
当時、病床にあった喜代さんは家族を枕元に呼ぶと、寄付金で実際の生活に役立つ女学校を作るよう申し出てほしいと頼んだそうです。
子孫の言い伝えによれば、喜代さんは良妻賢母教育は理詰めで役に立たないとし、もっと家政に役立つ女学校を、作ってほしいと話したそうです。
喜代さんの願いは実現し、翌年、1918年歌舞伎町に第5高等女学校(現・都立富士高校)が設立されました。やがて学校の周辺は山の手的な住宅街になっていき、大臣や軍人の邸宅も増えて発展していきました。
昭和7(1932)年に淀橋区に編入されると、さらに市街化が進みます。
ここは江戸時代、肥前・大村藩の屋敷がある以外は荒涼とした湿地帯で、窪地でした。明治以降は鴨場として使われるようになり、末頃に浄水場が建てられたものの、依然として閑散としていましたそうです。
喜代さんがこの土地に女学校を建てさせたことで、人の住む活気ある街に発展したのです。
こうして貴代さんは現在東京きっての歓楽街、新宿歌舞伎町が市街地に発展する基礎を築かれました。
峯島家には喜代の銅像があるそうで、その銘を揮ごうしたのは渋沢栄一氏だそうです。喜代さんは、渋沢を「お前さん」と呼ぶただひとりの人だったそうです。
めぐめぐがすごいと思う峯島貴代さんのこと
143歳で家業を継がれることになり、その才能を亡くなるまで発揮されたこと。
2質素に暮らし、素晴らしい判断力で家業をどんどん大きくされたこと
3女子教育のためには大金を投じ、後世のために貢献されていること。
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