第13週 月曜日 歴史上の人物 杉村春子
13人目の歴史上の女性は女優の杉村春子さんです。
杉村 春子(すぎむら はるこ)さんは、1906年(明治39年)1月6日 に当時の軍都、広島県広島市西地方町(現在の広島市中区土橋町、河原町付近)にお生まれになりました。
幼時にご両親が亡くなられため、花柳界の中にある建築資材商と置屋経営者の養女になられます。
お父さんが近所の寿座という西日本一の芝居小屋の株主だった関係で、春子さんは幼少期から歌舞伎や新派、歌劇、文楽などに親しまれます。
1922年、山中高等女学校(現・広島大学付属福山高)卒業後、声楽家を目指し上京して東京音楽学校(現・東京芸術大学)を受験されましたが、2年続けて失敗したことがきっかけで、1924年広島に戻り、1925年から1927年3月まで広島女学院で音楽の代用教員をされていました。
広島女学院の教員室で築地小劇場(俳優座の前身)の広島公演の話を聞き、同劇団の旅芝居を見て感動され。1927年4月、お母さんに音楽の勉強をしたいからと偽り再び上京されます。
同劇場のテストを受け、広島訛りが強く、土方与志氏から「三年くらいセリフなしで辛抱するなら」という条件付きで採用され、築地小劇場の研究生となった[18]。芸名は姓だけ、青山杉作の一字を貰い、"杉村春子"としたそうです。
同月『何が彼女をそうさせたか』に音楽教師の前歴を買われてオルガン弾きの役(台詞無し)で初舞台を踏まれます。
1929年、築地小劇場が分裂・解散した後は友田恭助氏らの築地座に誘われて参加され、1935年の舞台『瀬戸内海の子供ら』(小山祐士作)に出演されます。
1933年に5歳年下で慶応大学出身の医学生である長広岸郎氏と結婚したが、1942年に長広氏は結核で亡くなっているそうです。
築地座の解散後の1937年、岸田国士氏、久保田万太郎氏、岩田豊雄氏らが創立した劇団文学座の結成に参加されます。
直後に友田恭助氏が戦死したことで妻の田村秋子さんが文学座に参加せず、同劇団の中心女優として力を付けていくことになりました。
1938年に花柳章太郎の新生新派に客演し、大きな影響を受けられます。
1940年に『ファニー』で主役を演じて以降、文学座の中心女優となられました。演劇人生23年目のことでした。
また、文学座以外の舞台にも出演し、日本演劇界の中心的存在として活躍されました。
特に1945年4月、東京大空襲下の渋谷東横映画劇場で初演された森本薫作『女の一生』の布引けいは当たり役となり、1990年までに上演回数は900回を超え、日本の演劇史上に金字塔を打ち立てられました。
作中の台詞 "だれが選んでくれたんでもない、自分で歩き出した道ですもの-" は、生涯"女優の一生"を貫いた杉村春子さんの代名詞として有名です。
そのほか、日本のそれまでの芝居になかった"女"のすべてをリアルにさらけ出した『欲望という名の電車』のブランチ役(上演回数593回)、『華岡青洲の妻』の於継役(上演回数634回)、『ふるあめりかに袖はぬらさじ』のお園役(上演回数365回)、『華々しき一族』の諏訪役(上演回数309回)などの作品で主役を務め、『女の一生』と並ぶ代表作とされました。
1948年には「女の一生」により演劇部門で戦後初の日本芸術院賞を受賞されましたた。
60年安保前後から左翼に接近、安保反対のデモ行進に積極的に参加されます。1960年6月15日に参議院国会参議院面会所前であった新劇人会議のデモに暴力団が殴り込み、80人の負傷者を出したそうが、杉村は劇団の若い女優たちのスクラムに守られて難を逃れたそうです。
文学座分裂の動きは安保闘争のさなかに芽生え。脱退した劇団員はこのとき無関心を装った人たちだったそうです。
1963年1月、杉村さんの感情の起伏が激しい性格と、専横ともいえる劇団への統率ぶりに不満を持った芥川比呂志氏、岸田今日子さん、仲谷昇氏、神山繁氏、加藤治子さん、小池朝雄氏ら、中堅劇団員の大半が文学座を集団脱退し、現代演劇協会・劇団雲を結成します。
さらに同年12月には、それまで杉村さん主演の戯曲を何本も書いていた三島由紀夫氏の新作戯曲上演拒否問題(喜びの琴事件)が起こって、三島氏を筆頭に丹阿弥谷津子さん、中村伸郎氏、賀原夏子さん、南美江さんら、文学座の古参劇団員が次々に脱退しくことになりました。
杉村さんや戌井市郎氏らは、幅の広い観客層を対象にした大衆劇をやっていこうとしたため、演目選択争いが起こり、先のような軋轢が生まれたともいわれています。
喜びの琴事件の際、三島由紀夫氏は杉村春子さんへ、「俳優は、良い人間である必要はありません。芸さへよければよいのです。と同時に、俳優は、俳優に徹することによつて思想をつかみ、人間をつかむべきではないでせうか。組織のなかで、中途はんぱなつかみ方をするのはいけないと思ひます」と皮肉をまじえて批判する文章を送られているそうです。
杉村さんは、これらの脱退メンバーの大半とはその後の関係を断絶し、特に反杉村を鮮明にしていた福田恆存氏が代表となった劇団雲に参加したメンバーに対しては、共演を頑なに拒否するなど終生許すことはなかったそうです。
文学座は、主要メンバーの2度にわたる大量離脱で創立以来最大の危機を迎え、当時の新聞は"崩壊に瀕する文学座"などと書きたてたそうですが、太地喜和子さん、江守徹氏、樹木希林さん、小川真由美さん、高橋悦史氏ら若手を育てることで何とか乗り切られました。
とくにテレビ時代を迎えていた時流に乗って、次々にテレビに新人を送り込んだ功績は大きいと言われています。
杉村春子さん自身もニューメディアのテレビに積極的に出演されました。
但し杉村さんの専横に批判的だった人物が抜けてしまったことにより、杉村さんの劇団に対する独裁に近い影響力にさらに拍車がかかったとの見方もあるそうです。
1967年の『女の一生』の再演は文学座が立ち直るきっかけとなりました。
『女の一生』などを書いた劇作家の森本薫氏は杉村春子さんの愛人でもあったが、森本も1946年に結核で亡くなったそうです。
経営の苦労を身に染みて知る杉村はお客を大切にし、このことは新劇の商業演劇進出の走りといわれます。
「女の一生」は、16歳の役から始まるという事情から、いずれやめるつもりでいて1969年4月公演のとき「『女の一生』はこれが最後です」と杉村さんは宣言しましたが、「女の一生」をやるとお客さんが入るので、1970年代初めに文学座の経済危機もあり、「経済的事情で、もう1回やります」と記者会見を開いて1973年に再演しています。
新劇のリアリズムに立脚しつつ、新派や歌舞伎の技法を研究され。広島訛りは終生抜けなかったそうですが、リズムあるセリフ術と卓越したリアリズム演技で、細やかな情感を巧みに表現する独特のアクのある芸風を作り上げ見る人の心を捉えられました。
ボランティア活動に関心を持ち、昭和20年代後半「戦争未亡人が働きたくても子供を預ける施設がなくて働けない」というニュースが毎日のように新聞などで報じられた時期に、自分でも何かできないかと考え、杉村の発案で1954年に文学座で第1回慈善公演『女の一生』が、朝日新聞厚生文化事業団主催で行われたそうです。
その後、慈善公演のたびに100万円単位の寄付を行い、それらを貯めてクリニックカーを製作することを提案されました。「文学座」号と名付けられたクリニックカーがレントゲンなどの機材を装備し、全国の医療過疎地を走りました。
杉村春子さんは舞台以外にも映画・テレビでも幅広く活躍されました。
映画初出演は築地小劇場時代の1927年に小山内薫氏が監督をした『黎明』か1932年、初代水谷八重子さんと共演した『浪子』か、1937年、松竹の『浅草の灯』か、文献によって記述が異なるそうです。
1940年、国策映画『奥村五百子』(豊田四郎監督、東宝)で初主演されます。
戦後、黒澤明氏、木下惠介氏、小津安二郎氏、成瀬巳喜男氏、豊田四郎氏、溝口健二氏、今井正氏などの巨匠たちから、既存の映画俳優には無い自然でリアルな演技力を高く評価されました。
日本映画史を彩る140本以上の作品に出演され、映画史にもその名を刻まれました。
森雅之氏と共に最も映画に貢献した新劇俳優でもあるそうです。
杉村ほど他のジャンルの俳優と共演した新劇俳優はいないそうです。
特に、『東京物語』『麦秋』をはじめとする小津安二郎氏作品の常連でもあり、小津組でたった一人、読み合わせへの不参と"縫い"(かけ持ち)を許された俳優であったそうです。
1950年に10歳年下の医者である石山季彦氏と結婚するも、1966年に結核で亡くなられています。
1974年、杉村さんは女優としては東山千栄子、初代水谷八重子に次いで3人目の文化功労者に選ばれた。
1995年には文化勲章授章決定の内示を受けたが、「勲章は最後にもらう賞、自分には大きすぎる。勲章を背負って舞台に上がりたくない、私はまだまだ現役で芝居がしていたいだけ」「戦争中に亡くなった俳優を差し置いてもらうことはできない」とこれを辞退されました。周りの者がいくら説得しても聞く耳持たずだったそうです。
1995年、当時89歳で新藤兼人氏の『午後の遺言状』で主演し、毎日映画コンクール、日刊スポーツ映画大賞、キネマ旬報で主演女優賞を受賞されています。
1996年日本新劇俳優協会会長に就任されました。
杉村は多くの演劇人の目標であったことが知られています。
杉村さんは70年の芸能生活で仕事を一度も降りたことがなかったが、1997年1月19日にNHKドラマ『棘・おんなの遺言状』の収録中に貧血と腰痛を訴えて入院し降板、代役は南美江さんが勤めました。
2月に入り文学座の会見では十二指腸潰瘍と発表されたが、そのときすでに医師から膵臓癌でもあることが文学座の社長の梅田濠二郎、戌井市郎や北村和夫・江守徹など親しい者にだけ知らされていたという。
3月に新橋演舞場で予定されていた『華岡青洲の妻』も、チケットが発売されている中での緊急降板となり、代役は藤間紫さんが勤めました。
しかし病室では簡単なストレッチをしたり、男性の見舞い客が来ると聞くと長い時間をかけてお化粧をしたりと、常に弱っている姿を見せまいと気丈に振る舞っていたそうです。
3月16日から意識が混濁し、4月4日午前0時30分、頭部膵臓癌のため東京都文京区の日本医科大学付属病院で死去されます。満91歳でした。
最期を看取ったのは養女のヒロさんと、当時70歳の長年親しくしていたファンの女性だけだった。本人には癌であることを知せなかったため、死去の直前まで台本を読んでおり、最期まで女優であり続けられました。
死後、政府から銀杯一組が贈られたそうです。
杉村の死後1998年、若手演劇人の育成に力を注いだ杉村の遺志を尊重し、新人賞的意味合いを持つ杉村春子賞が新たに創設されたそうです。
杉村さんについて以下の本があります。
めぐめぐがすごいと思う杉村春子さんのこと
1女優になるまでものすごく苦労されていること。そしてダメでもあきらめず親に内緒で上京され劇団に入られたこと。
2多くの演劇人の目標であり、それを守るために自分の道を貫かれたこと。
3亡くなる直前まで女優であり続け、また女として生きられたこと。