第21週 水曜日 教育者 十文字こと
22人目の教育者は十文字学園を創立された十文字ことさんです。
十文字 こと(じゅうもんじ こと)さんは1870年12月31日京都府に高畑清治郞氏の長女「高畑こと」としてお生まれになります。
東京に移り、1893年に女子高等師範(現在のお茶の水女子大学)を卒業されます。
卒業後1894年に鹿児島県尋常師範学校助教諭を務められます。
その後地元の京都に戻られ1897年-1899年京都府尋常師範学校女子部(現在の京都教育大学)の助教諭・舎監になられます。
そして神田須田町に十文字商会を経営する十文字大元氏と結婚され、また東京に戻られます。十文字 ことさんになります。
1900年長女のなかさんが産まれます。 なかさんは東京理化工業所(現在の川金ダイカスト工業)創業者、金門製作所二代目社長の小野田忠(1894-1982)氏と結婚されます。小野田氏は福島県出身で、東北大理学部卒、文部省在外研究生として欧州視察後、理学博士になった方です。1934年にダイカスト事業を金門商会から分離し東京理化工業所を設立、1953年に金門製作所社長に就任されました。
そして1902年-1906年東京市本郷区龍岡町(現在の東京都文京区湯島4丁目)の私立日本女学校(相模女子大学)教員を務められます。
その間に夫の大元氏は1904年に金門商会を創立し、国産初のガスメーター製造販売を始められます。
1906年長男の俊夫氏が産まれます。
1922年(大正11年)、十文字 ことさんは戸野みちゑさん、斯波安さんとともに、東京府北豊島郡巣鴨町に文華高等女学校を創立されます。
そしてその学校では夫の大元氏が全国規模で普及活動を行っていた「自彊術」による体操を同校の日課に取り入れます。
1924年(大正13年)12月21日、金門商会を創設した夫・大元氏と死別されます。
金門商会(1948年に金門製作所に改名)は息子の俊夫氏が継ぎ、折からの軍需インフレで繁栄したそうです。
1935年(昭和10年)、十文字 ことさんは文華高等女学校長に就任され、1937年(昭和12年)、十文字高等女学校と改称しました。
同校女学生の中に、金門商会の金属工場で放課後働いている者がいることが新聞報道され、「仕事をするということは自分をつくり上げること」とその際答えておられるそうです。
1951年(昭和26年)、財団法人十文字高等女学校を学校法人十文字学園(現行)に組織変更し同年、藍綬褒章を受章、理事長に就任されます。
1953年(昭和28年)子息の十文字俊夫氏が亡くなります。
1955年(昭和30年)5月17日、十文字ことさんは死去されます。
84歳でした。
子息の十文字俊夫氏の妻十文字良子さんが跡を継ぎ、同学園の理事長に就任しました。
めぐめぐがすごいと思う十文字ことさんのこと
1結婚されるまで様々な地の様々な学校で教師として働かれていること
2お子さんを2人育てつつ学校事業を発展されていること
3お子さんが亡くなっても最後まで理事長として学校のために献身されていること。