第11週 水曜日 教育者 櫻井 ちか
第11人目の教育者は櫻井ちかさんです。
櫻井ちか(さくらい ちか)さんは1855年5月19日(安政2年4月4日)東京日本橋でお生まれになりました。名前は近子、智嘉とも書くそうです。
お父さんは徳川家御用達平野与十郎氏で、長女として生まれられました。
1872年(明治5年)海軍士官の櫻井昭悳(さくらいあきのり)氏と結婚され、神田にあった英学塾の芳英社という女学校で英語を学ばれます。
その後,プレスビテリアン教会派の牧師タムソンに英語をならったそうです。そして明治7年に新栄教会で彼から洗礼を受け,キリスト教徒になられました。
その後、近子さんの影響で、明悳氏もキリスト教徒になります。
更に櫻井近子さんは横浜の共立女学校で英語を学ばれます。
1879年(明治12年)10月24日 - 私財を投じて東京麹町に英女学家塾を開設されます。さらに小学校、貧学校、幼稚園を付設し、櫻井女学校と改称されます。
1881年(明治14年) - 明悳氏が海軍を退役し、牧師として函館に赴任することとなり、近子さんも函館に移られました。これに伴い、櫻井女学校の校長は矢嶋楫子さん、経営はアメリカ長老教会に移されました。
この櫻井女学校は自由自治の学風で、アメリカの家政学を取り入れたカリキュラムを持っていたそうです。その後矢嶋さんと共に活躍する女性を育てたそうです。
また近子さんは函館女子師範学校で教鞭をとるようになった。その後更に大阪女学院などで教鞭をとられています。
また教育視察のために3回アメリカに行かれています。
1890年(明治23年) 櫻井女学校は新栄女学校と合併し、校名を「女子学院」となりました。更に矢嶋楫子さんが引き続き院長となられました。
1895年(明治28年) 近子さんは 東京本郷(向ヶ丘弥生町)に夫昭悳氏が開いていた向ヶ丘教会内に、家庭的小規模な寄宿学校を開設し、アメリカで学んだアメリカの女子教育を取り入れられます。この学校は1898年(明治31年)に英語専門学校に拡大し名称を櫻井女塾と改名します。近子さんは晩年までその経営に当たられました。
1928年(昭和3年) 12月19日 逝去されます。享年73歳でした。
さらに学校は1933年(昭和8年)には櫻井女子英学塾と改名、1942年(昭和17年)昭和女子大学に吸収されています。
主要著書には以下のものがあるそうです。
「西洋料理教科書」1910年 紫明社
「実用和洋惣菜料理」1912年 実業之日本社
「手軽に出来る家庭料理」1916年 実業之日本社
「三百六十五日 毎日のお惣菜」1917年 政教社
「楽しい我が家のお料理」1925年 実業之日本社
「日々活用 御料理辞典」1927年 文武書院(名義:ちか子、肩書き:櫻井女塾長)
めぐめぐが思う櫻井ちかさんのすごいところ
1英語に特化して学ばれ、アメリカに3度行かれて、その教育を日本に持ち込む学校を作られたこと。
2夫の転勤で移動することになり、自分の仕事を他人に任せ、新天地でも教育者として活躍されたこと。
3生涯ずっと教育者として自分の作った学校を発展させられたこと。