第10週 水曜日 教育者 石井筆子
第7週10人目の教育者は日本の近代女子教育者の一人であり、日本初の知的障害者福祉の創始者である石井筆子さんです。
石井 筆子さんは1861年4月27日生まれ肥前国の大村藩士の渡辺清·ゲンの長女として生まれます。
お父さんは幕末から明治維新期の志士で、明治政府では福岡県令や元老院議官などの要職を歴任し、男爵に叙せられました。筆子の叔父・渡辺昇も同じく志士で、坂本龍馬と親交を持ち、薩長同盟の周旋をした功労者だそうです。
12歳のときにお父さんのいる東京へ祖父母と上京します。
そして当時全て英語で教育が行われた東京女学校を卒業後、1880年に皇后(昭憲皇太后)の命によりヨーロッパに留学されました。
帰国後の1885年、筆子は津田梅子と共に華族女学校の教師となり、筆子はフランス語科目の授業を受けもったそうです。そのときの教え子に貞明皇后がいらしたそうです。
また、女子教育振興組織の「大日本婦人教育会」を創設、貧困家庭の女子の自立を図るための職業教育を無料でおこなう大日本婦人教育会付属女紅女学校を開校しました。
鹿鳴館の舞踏会にもたびたび参加し、「鹿鳴館の華」と評判だったそうです。きっと相当の美人だったんですね。
明治政府のお雇い外国人のドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツは、明治22年(1889年)3月に外務次官青木邸で催された宴会で、袴姿の筆子を見かけ、「日本の一女性の出現によりすっかり魅了されたが、それは小鹿島夫人で、自分がこれまでに出会った最も魅力ある女性の一人だ。夫人は達者に英語、フランス語、オランダ語を話し、敢えて日本の袴を洋装に利用する勇気があった」と日記に記しているそうです。
さらに静修女学校の校長に就任し、近代女子教育者としても活躍した。静修女学校は後に津田が主宰していた女子英学塾に引き継がれ、現在の津田塾大学となリます。
筆子は同郷の高級官吏・小鹿島果氏(1857年 - 1892年)と1884年に結婚するが、生まれた3人の娘のうち2人は知的障害があり、あとの1人は虚弱で出産後ほどなく死亡しました。
その上、1892年に夫の果が35歳で死去されます。
その頃、キリスト教の洗礼を受けてクリスチャンになったそうです。
その後、娘を石井亮一氏が主宰する滝乃川学園に預けていた経緯から、学園に経済的・精神的な援助を惜しまないようになる。
その過程で園長の亮一の人間性に惹かれ、再婚されます。
そして知的障害者の保護・教育・自立に献身されました、
当時の世情は富国強兵の政策もあって、生産能力に欠ける存在とされていた知的障害への理解ははなはだ乏しく、座敷牢で一生涯を送る者も少なくなかったそうです。
筆子は実際に教育現場に立つ一方、華族出身であったことを生かし皇族、華族、財界人からの支援を受けることに成功し、滝乃川学園の発展に貢献されました。
晩年には脳出血で半身不随となり、さらに学園維持のための莫大な借金を抱えたまま夫に先立たれます。
学園の閉鎖も検討されますが、学園の維持こそ夫の遺志を継ぐことと奮起し、1937年10月16日、76歳の高齢で第2代学園長に就任されます。
しかし第二次大戦中であり、生徒や教職員の戦死など困難の続く中、学園の将来を案じつつ83歳で死去されました。
学園は戦争を乗り切り、社会福祉法人・滝乃川学園として維持され現在に至っています
石井筆子さんについての本がいくつか出版されているので
以下に紹介します。
めぐめぐがすごいと思う石井筆子さんのこと
1夫に2度も先立たれるという人生の困難に出会うも、その厳しい時期を乗り切られていること。
2親として先生として知的障害を持つ子ども達を生涯現役で教えたこと。
3様々な社会の困難に立ち向かい、知的障害を持つ方々の地位を上げるために一生を捧げられたこと。