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第17週 月曜日 歴史上の人物 原智恵子


17人目の歴史上の人物はピアニストの原智恵子さんです。


原智恵子さんは1914年12月25日兵庫県神戸市須磨ご出身です。

お父さんの原粂太郎はハーバード大学に学んだ川崎造船所の技師長で、有島武郎・有島生馬兄弟の友人だったそうです。
智恵子さんは7歳の時からスペインのピアニストのペドロ・ビリャベルデ氏(Pedro Villaverde)にピアノを習われます。

ビリャベルデ氏に連れられてミッシャ・レヴィツキ氏やシャルル・ミュンシュ氏などの来日公演に接する機会があったそうです。
智恵子さんが須磨小学校4年のときに一家は上京されます。

そこで洗足に育たれます。そして聖心系のインターナショナルスクールで2年間学ばれます。
お父さんの友人有島生馬氏の仲介で原家を訪れた野村光一氏・堀内敬三氏・伊庭孝氏・津川主一氏などの音楽評論家が智恵子さんのピアノの才能に注目されます。
1928年、13歳の時、フランスのピアニストのアンリ・ジル=マルシェ氏(Henri Gil-Marchex, 1894-1970)から勧めを受けた父の決断により、有島生馬氏に随行して智恵子さんは渡仏されます。

最初はジル=マルシェ氏の個人指導を受けたが合わないものを感じ、やがて銀行家のシャトネ家に預けられ、そこの一人娘からピアノの指導を受けるようになられます。
1930年からインド学者シルヴァン・レヴィ氏の紹介でラザール・レヴィ氏に師事、同年、パリ国立音楽院入学されます。
1932年、日本人で初めてパリ国立音楽院を最優秀で卒業されます。

同年10月に一時帰国され1933年2月9日、日比谷公会堂で初の独奏会を開き、新聞各紙に大きく取り上げられたそうです。
1933年12月、来日中のフランス前文部大臣アンドレ・オノラ氏から才能を認められ、フランス政府の給費生として再びパリに留学されます。
1937年、第3回ショパン国際ピアノコンクールに甲斐美和子さんと共に日本人として初参加されます。

審査の結果は15位となりました。

この結果に聴衆が憤慨し、会場は警官隊が出動するほどの大騒ぎとなり、特例として、彼女に「特別聴衆賞」を贈ることでようやく事態が収まったそうです。

聴衆賞の後だし授与はコンクールの全歴史の中、この一回しかないそうです。

このころ、留学仲間の池内友次郎氏から

求婚され、これを拒絶しているそうです。

またこの頃コルトー氏、ルービンシュタイン氏

等にも薫陶を受けられているそうです。


1938年9月3日、一時帰国し国内を演奏旅行で凱旋します。
11月25日、留学仲間の川添浩史氏(本名・川添紫郎、後藤象二郎の庶孫。のちのイタリアンレストラン「キャンティ」創業者)と結婚されます。当時、川添氏は定職を持たなかったそうです。12月に渡欧の予定だったが、翌年1月に延期されます。
1940年、世界情勢悪化のため、やむを得ず帰国されます
1941年、長男・象郎氏を出産されます。
1943年、次男・光郎氏(のちのキャンティ2代目オーナー)を出産されます。
智恵子さんは戦中戦後を通じ国内で演奏活動を続けておられました。

また智恵子さんは川添氏とオペラ歌手の三浦環さん、パリ時代の友人で建築家の坂倉準三氏らと赤坂にサロン「スメラクラブ」を作ることにも関わっています。この文化倶楽部は小島威彦氏と仲小路彰氏と陸軍軍人高嶋辰彦氏の発案で「スメラ学塾」(日本で起こった、日本人シュメール起源説などのシュメール文明についた学ぶ勉強会)に川添氏が感化されたことが発端と考えられています。



戦後夫の川添氏がアズマカブキのイタリア公演にナレーターとして参加した時イタリアで結婚していた岩元梶子さんと愛人関係になったそうです。

このお二人は有名なイタリア料理店を創業されています。

キャンティと言えば




このため川添氏から離婚を迫られたが、1958年12月3日、川添氏との離婚が成立しないままイタリアに行き、フィレンツェで20歳年上のチェロの巨匠ガスパール・カサド氏と同棲することになります。


1959年4月26日、カサド氏との婚約を発表されます。

まもなく川添氏と離婚されます。

1959年5月9日、カサドと再婚し、イタリアに定住することを決められます。

このとき、二人の子供には予め「演奏旅行に行く」としか伝えていなかったため、「子供を捨てた母親」として日本でスキャンダルとなったそうです。

以後、ヨーロッパを中心にデュオ・カサドとして、またソリストとして活動

されます。

1966年カサド氏と死別されます。

以後、日本でカムバックを図られまするが失敗し、楽壇で孤立し、アルコールに溺れたこともあるそうです。


1969年からフィレンツェで「カサド国際チェロ・コンクール」を主催されこのコンクールは通算10回(1990年まで)開催されたそうです。この活動で智恵子さんは多くの若い音楽家を育てられました。

1970年全夫の川添氏が亡くなられています。


1984年2月16日、智恵子さんは自らの不注意から東京で自動車にはねられ負傷されます。この事故のため手に後遺症が残ります。

以後、字を書きにくくなるなどの症状に悩まれるようになります。


1990年、智恵子さんは体調を崩し日本へ帰国、そのまま一人ではいられ療養生活に入られます。

1997年、カサドの楽譜資料(シューベルトのアルペジオーネソナタの管弦楽編曲版などを含む)および自身愛用のピアノやチェンバロを玉川大学に寄贈されます。このあたりの経緯はよくわかりません。



同大学ではその際に記念コンサートを催したものの、その後楽譜資料整理は中断したそうです。

晩年は脳血栓の後遺症で言語障害となられます。


2001年12月9日夜、老衰のため東京都青梅市の病院にて逝去。葬儀の喪主は

川添氏との次男川添光郎氏が務められました。

2004年、前述の玉川大学への寄贈品に含まれなかった遺品の中からバッハの「結婚カンタータBWV216」の自筆譜が発見され、国立音楽大学教授礒山雅らの鑑定により本物と確認される。


2012年、玉川大学は「ガスパール・カサド及び原智恵子関係資料整理・調査プロジェクト」を発足させ、目録公開に向けて整理調査を再開されます。

この経緯はここに詳しくあります。



2016年、玉川大学教育博物館は、寄贈資料の目録公開記念と銘打った企画展を開催。会期中に記念演奏会と記念シンポジウムも開催したそうです。


原智恵子さんについてはいくつかの本やCDが買えます。





原智恵子さんの公式ページもあります。


めぐめぐがすごいと思う原智恵子さんのこと

1個人のピアノ指導から才能を認められ、パリの音楽大学を最優秀で卒業され、さらにまた国費で留学されるなど本当に素晴らしい才能を持っておられたこと。

2愛に生き、愛に傷つき、そして愛を貫いて生きられたということ。

3そして様々な日本のしがらみと戦い、世界の音楽家後進を育て

最後まで強く生きておられたこと。




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めぐめぐ@日本の女性の人生を記事にして書いています。
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