第13週 土曜日 メディアで活躍する女性 加賀まりこ
13人目のメディアで活躍する女性は女優、司会者の加賀まりこさんです。
加賀 まりこ(かが まりこ)、本名は加賀 雅子(かが まさこ)さんは1943年〈昭和18年〉12月11日東京都神田区小川町(現在の千代田区神田小川町)に末っ子としてお生まれです。姉は13歳年上、兄は12歳年上で。兄は大映・松竹のプロデューサーの加賀祥夫氏です。
お父さん加賀四郎氏も映画会社大映のプロデューサーとして知られ、芸能一家の中で育てられました。新宿区神楽坂で成人され、現在も新宿区在住です。
またおじいさんは元衆議院議員の加賀卯之吉氏。母方のおばあさんは神田錦町で貸席を営んでいた松本フミさんだそうです。
おじさんにあたる加賀一郎氏はアントワープオリンピックで100mと200mに出場しており、ベルリンオリンピックにも役員として選手団に同行、もう一人のおじさん・加賀二郎氏は松竹株式会社元常務だそうです。
また父方・母方の従兄妹は元女優の岸雅子(のち加賀周子)さん、シャボン玉ホリデーカバーガールをつとめた加賀美知子さん、元日本テレビプロデューサーの加賀義二氏。俳優の田中健夫人の女優、加賀千景さんは姪にあたるそうです。
小学生の時分より隣町である神田神保町の古本街に通われ、澁澤龍彦翻訳の「マルキ・ド・サド選集」を愛読されていたそうです。
小さい時から思ったことは何でも口にする歯に衣きせぬ毒舌だったといわれています。
また映画で見た、オードリー・ヘプバーンの髪型にするため1人で美容院に行くほどだったと言われています。
中学校時代には陸上競技を行っており、2年時には走幅跳で都大会で優勝しておられるそうです。
やはり伯父さんの血が入っていますね下さい
高校生になると行動範囲は広がり、六本木や麻布界隈で飯倉の高級イタリアレストラン「キャンティ」に学生服のまま通っていたそうです
キャンティで加賀さんは安井かずみさん、コシノジュンコさんらと親しくなったそうです。
また、キャンティのママ川添梶子さんの自立した生き方に強い憧れを抱いていたといわれています。
千代田区の一橋中学を経て明星学園高等学校入学されます。
同校在学中の1960年、通学姿を見初めた篠田正浩氏と寺山修司氏に路上でスカウトされ、フジテレビ系ドラマ『東京タワーは知っている』でデビューされました。
芸名は秋山庄太郎に付けてもらった。「加賀だったら、『まりこ』が明るくていいじゃないか」とのことだったそうです。
松竹と5年間の新人契約を交わして1962年に『涙を、獅子のたて髪に』で映画デビューされます。
中尾彬氏、山本陽子さんらと共演した主演映画『月曜日のユカ』は、加賀まりこさんの代表作の一つです。
その後数々の映画やドラマに出演し、小悪魔的なルックスと高い演技力で人気女優となられました。
反面、常に歯に衣着せぬ発言、かつ強気であったため「生意気」のレッテルを貼られ、尖ったキャラクターイメージでお馴染みとなり、その言動が波紋を呼ぶこととなりました
20歳の時、次々に舞い込んでくる仕事と女性週刊誌がイメージだけで書く記事に嫌気がさし、人生をリセットする目的で半年先のスケジュールまでキャンセルして、単身パリに渡られます。
それまでに稼いだ金で豪遊のかたわら、イヴ・サン=ローラン、フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワーズ・サガンらと交友されています。
半年が経ち、金が底をつき帰国を考えていた矢先に、国際電話で演出家・浅利慶太氏から舞台出演の打診をされます。
帰国後、劇団四季の舞台『オンディーヌ』に出演され連日大入りの大盛況となりました。
この舞台で初めて女優としての喜びを知り、以降女優業に本腰を入れるようになったそうです。
作家川端康成氏は大変加賀さんを気に入っており、撮影所や劇場によく見学にきたり、ともに朝食を摂ることもある仲であったそうです。
加賀は川端について「いいダチ」と述懐しているそうです。1965年に出演した映画『美しさと哀しみと』の作品中のレズビアン「坂見けい子」を加賀が演じることになり、川端氏は原作者として加賀さんと初対面されました。
川端氏は加賀さんのリハーサルの演技を見て、「加賀さんの熱っポイ激しさに私は驚いた」、「私がまるで加賀まりこさんのために書いた様な、他の女優は考えられないような、主演のまりこがそこに現れた」と述べ、登場人物の「けい子」というエキセントリックで妖精じみた娘に、「演技より前の、あるいは演技の源の、加賀さんの持って生まれた、著しい個性と素質が出ていた」と褒めたそうです。
石坂浩二氏とは1966年に舞台で共演したことを契機として交際が始まり、一時は同棲にまで至るも、お互いの仕事が忙しくなり関係は自然消滅したそうです。
また後に石坂氏と結婚する浅丘ルリ子さんを石坂氏に紹介したのも加賀さんだそうです。
1972年、加賀さんは未婚のまま女児(父親は非公表)を妊娠、シングルマザーとして育児をする決意されましたが、1972年2月14日、出産7時間後に子供は死亡(理由は非公表)されました。
また加賀の出産当日に亡くなった娘と同じ1972年生まれという共通点があった飯島愛さんとは『クイズ赤恥青恥』(テレビ東京)で出会って共演して以来親交があったそうです。「私もあなたのお母さんになる」というつもりで交流が始まったそうです。
そして飯島の死後(2009年)に行われたお別れ会では発起人の一人として名前を連ねられました。
2005年から2007年にかけて放送の『花より男子』に出演したことで若い世代からも「道明寺のお母さん」と認知され、特に女子高生から声をかけられることが増えたそうです(なお、本人は自虐的に語っている)。この役について「鉄の女というか、血が通ってない役は似合わないと思って最初は断ったけど、クランクイン1週間ほど前にプロデューサーと演出家の方に口説かれ、その熱意に打たれて出演を決めた。反響が凄かったわ」と語っておられるそうです。
2011年秋に中尾彬氏と一緒に肺炎予防大使に就任されます。肺炎予防推進プロジェクトの一環で、肺炎球菌ワクチン接種の啓発に一役買われました。
2013年6月からは1ヶ月間スポーツニッポン紙上で「我が道」を連載され本になっています。
2017年10月18日放送分のフジテレビ系『良かれと思って!』に出演した際、6歳下のドラマ演出家と事実婚していることについて次のように語られたそうです。
「60歳の時から(事実婚している)。向こうが振り向いてくれた。5年越し、55歳の時から(アプローチしていた)」
いくつか加賀さんの作品を紹介します。
私はこの役がなんか記憶にあります。
めぐめぐがすごいと思う加賀まりこさんのこと
1芸能一家に生まれられて、その中でも素晴らしい美貌で多くの日本人を虜にし、今現在も若者に人気があること。
220歳で半年思い切ってパリに行き、そこで本当に好きなことをされたこと。
3若いころから本当に人思いの素敵な女性でたくさんの方々と親交があること。
加賀さんがいろいろな本を書いておられることを今回初めて知りました。やはり若いころたくさん読書されていたからだと思います。
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