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残酷なクラシックバレエの世界
「完璧など存在しない」と人は言う。
だがそれは失敗から目をそらしたり夢を諦めるための言い訳にすぎない。
作品を「完璧という領域」にまで到達させるためには、ダンサーの心技体だけではなく、オーケストラやスタッフ、観客、劇場を含むすべてが最高の次元で調和しなければならない。
しかし「完璧という領域」はたしかに存在する。
偉大な芸術はすべてそこで脈打っている。
先日、図書館でふと借りようと思い立ち熊川さんの著書を拝読。
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幼少期から唯一色褪せない私の趣味、バレエ。
それは私に「努力だけでは到達することのできない領域というものが厳然とある」という事実を教えてくれた存在。
頂点に立つためにはどうしても“才能”というギフトが不可欠な世界。
積み重ねるべき訓練の前に、そもそも持って生まれた骨格や容姿、身体能力が決定的にものを言う。そう意味でバレエほど残酷な世界は他にない。
特に女性ダンサーには特別高いハードルが課される。絵画や彫刻の世界では濁った色や崩れた形がひとつの美として認められるのに、バレエでは洗練された美のストライクゾーンがビシッ!決まっている。
つくづく、美しさという才能を兼ね備えた人間だけがトップに立てる世界だよなと思う。
努力でそこそこのレベルまで引き上げることはできる。ひとつひとつの動きを工夫さえすればそれなりの技術は習得できる。
が、しかし、この世界は勝ち負けではない。
求められるのは芸術という舞台の駒。
「白鳥の湖」はクラシック音楽として神の領域である。
まず音楽が流れ、観客の聴覚を刺激する。舞台に白鳥が現れたとき、今度は視覚に訴えることになる。容姿やスタイルだけの問題ではない。そこで問われるのは、流れている神がかった音楽と調和できているかどうかである。「白鳥の湖」のオデットは、バレリーナにとって屈指の難役とされる。
音楽を邪魔することなく、むしろ音楽をより神々しく輝かせる。そういうダンサーしかチャイコフスキーには選ばれない。
崇高な音楽というのは偉大だ。
そして偉大な芸術家は現代に生き続けている。モネは睡蓮となり、チャイコフスキーも音符に変わって生きている。
熊川さんもアンナムロムツエワさんもそういう歴史に選ばれたダンサーだと思う。
名門バレエ団の来日公演を見てしまうと、もう次元の違う美で溜め息しかでない。
生まれ変われるならあの身体が欲しい。
それでも今日もわたしは、芸術の域には到底及ばないバレエを愉しむのであります。