まさに、いま、ものの考え方を、選びなおすこと。
若いおサカナが二匹、仲良く泳いでいる。
ふとすれちがったのが、
むこうから泳いできた年上のおサカナで、
二匹にひょいと会釈して声をかけた。
「おはよう、坊や、水はどうだい?」
そうして二匹の若いおサカナは、しばらく泳いでから、はっと我に返る。
一匹が連れに目をやって言った。
「いったい、水って何のこと?」
This is Water.「これは水です」デヴィッドさんのスピーチの出だしです。
このことを、だいぶ前に聴いてから、ずっと、このたとえ話が心に残っていました。(それと、もうひとつのたとえ、エスキモーに助けられた無神論者のお話も。)
すうっと言葉の奥にあるものが、届いてくる感じを思い出したくて、本になったら、いいなぁと、おもっていましたら、ほんとうに書店にならんでいて(しかも、探していた別の本の隣にあって・・・!)おどろきました。
「これは徳の問題ではなくー、
僕に自然に組み込まれた
ハードウェアであるこの初期設定を
どうにかして変える
あるいは削除するといった作業を
僕個人が選ぶかどうかの問題なのです。
この設定は文字通り
徹底して自分中心になっています。
なんでもこの自我のレンズを通して
ものを見たり、解釈していますから。」
何度も、心にしみわたってくるような、問いかけが
広がっています。
枠を、つくってしまったとしても、その枠から、出てみればいいのです。
捉え方、考え方、言語の、その奥にあるものに触れてゆくのは、
まさに、いま、選びなおすことができるのは、私自身なのだから。
そして、何を考えたいのか、何を体験したいのか、それも初期設定をしっかりと選び直すことを、してゆくために、いま、わたしは、ここにいるようにも感じます。
きょうも、奇跡を、贈り物を、ありがとう。
#This is Water