眼、というパーツ
生体を描くとき、私は眼に表情をつけません。
人物を始めとする「いきもの」絵を描く人は恐らく、「眼を入れる」という作業は全体の流れのなかで最も入魂する、楽しみな作業のひとつ。(少なくとも私は。)
最後の目入れをすることで命を吹き込む、大切な作業てす。
その目に、表情をつけないのは何故か。
平面の画面の世界に「絵」としての生体を閉じ込める二次元のイラストや漫画では、目に表情をつけることで登場人物に命を吹き込むことができます。
でも、私のように特殊な、平面の上に限りない三次元を求める場合、これが逆効果になります。
たとえば、これ。
画面上に「眼」がありませんが
そこに存在していることを十分に主張しています。
眼がなくても、生体であることがわかる。
平面世界内で生かすのであれば、目に光をいれることで命が吹き込まれたように思うのですが、
三次元の場合、そこに 「意思」を書き込みすぎることで、「絵」になってしまうのです。
それが、これ。
どんなに緻密に描かれていても、眼を描いているので、その時点でこれは「絵」です。
眼を敢えて殺すことで、生体全身の毛穴から均等に生命力を表現する。
そしてそれは、生体の表現だけに限りません。
例えば↓この方。 ファッションイラストのゆちゃさん。
https://note.mu/yuucha620
初めて見たときから何かに雰囲気が似てると思ったら
ジャン・ピエール・カシニョール。
フランスの有名な画家ですね。
最近の美術科の教科書にはカシニョール載せないのかしら、ゆちゃさんご自身は知らなかったみたいだけど
方向性が似ているのですよ。
共通するのは、人物そのものに表情をつけずに鮮やかな色彩で、主張したいものに上手に視線を向けさせているところ。
カシニョールは、女の眼の表情を極力抑え、ファッショナブルな帽子に視線がいくことを意図しています。
ゆちゃさんは、女性をマネキン化させることで自身のテーマであるファッションを全面に押し出している。
「眼」の表情を操るということは、作品全体の雰囲気をどこに持っていくのかを決めることなんだなと、思うわけです。
そんなふうに日々、表現者として自分の発信したいものと向き合っていることが、伝わるといいなぁと思いながら、筆を持っています。