流されて生きるのは悪い事なのか
『流されて生きてきた』と言う人を、時々みかける。
わざわざ自分で宣言することに余りプラスのイメージは無いので言う人は減っているとは感じるが、たまにいらっしゃる。
私は、その言葉に酷く違和感を感じる。
それは、私自身の性格、人生観、環境もあるが
『流されるべきではない』という無意識の考えがあるのかもしれない。
周りに任せて、主体性のない人生を送ってきた、そんな印象しかない言葉ではある。
何も、なんでも自分で考えて自分の人生を切り拓くものだと声高に言いたい訳でもない。
ある程度、生まれた国、性別、環境、遺伝子、家族関係、自分では決められない要素で人は左右されてしまうものなのもわかってはいる。
良い先生(勉学に限らず)に巡り合う為には、『縁』だけでは巡って来ない。
自分から能動的に動いて、色々な人間と関わって、自分なりの正解を見つける為に生きていくのが人生の中での重要なことだと思っているからだ。
ただ、人生には予期せぬ事が多く起きる。
どうしようもない、なす術もない、そんな不幸もある。
それでも、自分が自分でいられるように生きていく事、周りに流されるばかりではなく、自分の意思でもって生きていくのはそんなに難しいことだろうか?
『流されて生きてきた』とか、『なにも考えずに生きてきた』と言われると、返す言葉に困った時期があった。
良い悪い、でもないとその時は思っていたのだが
今ならそれは『では、これからもそうなんですか?』と聞いてみたくなる。
『流れに身を任せる』という言葉も好きではない。
どこか、自分の人生に無責任に聞こえる。
少し、関係がないような話。
戦時中、戦地に赴く軍人がとても子どもに優しかったそうだ。
シベリア抑留で、ソ連軍の軍人が日本人の子供には優しかったという体験談を聞いた。
間違いなく、戦争では否応なしに人は巻き込まれてしまう。
そこでも、敵味方関係ないところで、大人は子どもに希望を見出す。
残念なことに、平和になったのと引き換えに、生きることの過酷さに伴う人の力強さを私たちは忘れて、だらだらと生きるだけになってはいないだろうか。
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