辛い記憶の奥に見つけたもの
誰にも言いたくない経験。
怒り、惨めさ、孤独、悲しみ…。
ドロドロした「それ」を見たくなくて、ただ蓋をして無かったことにしていたこと。
前回の記事で書いたロバート・ゴンザレスの講座で体験したペアワークの内容と、その中で得た気付きを書いておきたい。
その内容は、過去に自分が心を揺さぶられた経験を思い出したときに自然と湧き上がってくる感情を、大事なゲストとして自分の心のリビングルームに迎える、という方法。
自分が傷ついた、もう思い出したくない経験で湧き上がってきた感情、そしてズタボロになった自分を受け入れ、ただ話を聞いてあげること。
それだけ。
書くとそれだけなのだが、一人でやるのはとてもむずかしい。
瞑想をしたことがある人なら分かるかもしれないが、集中しようとしても気付いたら全く関係ないことを考えてしまっている(「今日の晩ごはんは何にしようか、あれ、ご飯はまだあったっけ?お米研いでおかないと…」とか)
やはり誰かに誘導してもらって、見守ってもらうことが大切なようだ。
毎回すてきな方とペアになるのだが、コメントさえももらわず、存在で話を聞いてもらっていると、次第に安心感が湧き上がってくる。
深い呼吸で自分と繋がっていき、安心の海に、身を任せる。
私が思い出したのは、中学に入学して最初に入った部活動で、仲間外れにされて半年間で辞めたこと。
元々体を動かすのが好きで入った運動部だったが、同学年の間で「示し合わせ」があったのか、ひとりぼっちにされ始めた。一年生は色んな雑用をしなくてはならなかったが、「のろい」と言われることもあった。次第に居場所がなくなって苦しくなり、「家が遠くて朝練が大変だから」という理由で辞めた。
親にもラケットや体操着など色々と買ってもらったのに、辞めて申し訳なかった。
その後は文化部に入ったが、体育の授業でクラスメートに「もったいない」と言われたり、大学や社会人になって「なにか部活はやっていたの?」と聞かれる度に胸がチクリとした。そこでもいつでも思い出さないようにしていたことだった。
今回のワークをやってみたところ、思いがけずその経験が頭を横切った。思い切って、その頃のことを思い出し、湧き上がってきた感情をそのまま「自分の部屋」に入れてみた。
まるで風船のような頭の、顔のない人物。
ただただ怒っている。
仲間外れを主謀した、あの子に。
たぎるような怒りを感じつつ、その取り巻きの女子たちにも腹が立ってくる。ずるい、と。
その風船のような感情と向かい合わせになり、「そうなんだね」「うんうん」と、ただ聞いてあげる。
するとそのうちに「なぜ私の感情をずっと無視していたの?」と問いかけてくる。聞いて欲しかった、と。
私は「ごめんね」と心から謝ることしかできなかった。
ただ聞いてもらい、謝ってもらって満足したのか、その風船のような頭は、次第にしぼんでいった。
ここでペアの相手が「そのときの自分に言いたいことは?」と聞いてくれた。
すると自分でも思いがけない言葉が出てきた。
「大丈夫」と。12歳の自分に対して語りかけた。
「大丈夫、これからあなたは、まだ想像もできないような、素晴らしい人生を歩むから」
「だから自信を持って」と。自然と涙がこぼれてきた。
その後の中学、高校生活が自分が望んでいたようなものだったかは分からない。でも、その時に感じていたほどの絶望感、息苦しさ、閉塞感を感じる事は無かった。
語りかけは続く。「そんな辛い経験を乗り越えた自分を誇りに思って」と。
何かパラレルワールドを生きているようだった。
泣いている、悲しんでいる12歳の自分に対して、大人の自分が「大丈夫だよ」と語りかけている。
そして「大人の自分」はその後の人生を知っているからこそ、強い確信を持って言える。「大丈夫だよ」と。
何かこう、止まっていた時間が流れ始めた気がした。
ずっと心の中で繰り返していた再生していたシーンから、ようやく時間が前に進むように。
感情がぐちゃぐちゃで、思い出す度に自分を苦しめていたシーン。出ようとしても出られない、心にベッタリとこべりついた憎しみ、惨めさのイメージ。
そのシーンに立ちすくんでいる限り、ずっと「惨めな恥ずかしい自分」だった。
でもそのときの感情を「迎え入れて」感じきると、心にスペースが生まれ、一歩下がって見ることができ、「そんな辛い経験をも乗り越えた自分」になった。
心の中でイメージが離れなかった、憎いはずのあの子が教えてくれた気がした。
「ここにあなたが自信を取り戻せるきっかけがあるんだよ」と。
本当は誇りに思っていい。
恥に思わなくてもいい。
その辛い時間を耐えた、乗り越えた、という事実だけでもう十分。
そんな大事なことを気付かせてくれて、ありがとう。