何もできない自分をゆるす。
今日、ロバート・ゴンザレスのNVC講座のペアワークをした。
テーマは「self-responsibility, 自己責任」。
講座の中でロバートは「自己責任は、自己否定や自己批評と捉えられやすいが、そうではない。自己に対する慈悲の気持ちと、同じものに向けられるもの」と解説していた。
自分の中で起きている、自分の感情に対して、責任を持つこと。
冷ややかにも感じる指摘だが、「自分が選択できる力やスペースを認識すること」と私は受け取った。
というのも、その反対が、reactiveつまり反応的であるということ。
外部の刺激に対して、怒りや悲しみで反応的になるとき、私たちは自分を見失いがちである。
そしてこの怒りや悲しみというのは、自分の思い込みやパターンからの反応。
なので自己責任を持つということは、反応的な怒りや悲しみではなく、一呼吸おいて、もっと根源的な怒りや悲しみに寄り添う作業にもなる。
私が今回のワークで思い出したことは、「できない自分をゆるす」ということ。
というのも、このペアワークでは、心が揺れた経験をシェアして、ペアの相手と一緒に観察していく作業なのだが、私はそのテーマが思いつかなかった。
そして、「こういったワークでテーマが思い浮かばない、できない自分」というものにフォーカスをしていった。
すると、小学生の頃に通っていたバレエスタジオが目に浮かんだ。
バレエは、自分で選択して習っていたわけではなく、親に始めさせられたという気持ちがある。(実際には覚えてないだけで、行きたがっていたのかもしれない)
最初に通っていたバレエ教室は自由な雰囲気だったが、諸事情によって別の教室に行くことになった。
そこは、もっと本格的でスパルタな教室だった。
もともと体が硬かった私は、ウォーミングアップだけでもキツかった。
開脚が全くできず、先生に引っ張ってもらう始末。
痛くて、自分の叫び声がスタジオに響き渡る。
恥ずかしい。
みんなから浮いている。
ダメな自分を晒して恥ずかしい。
そこに悔しさがなかったのは、そこまでバレエが好きではなかったからかもしれない。でも
「できない自分」= ダメ、恥ずかしい
という思い込みが強くなった出来事だった。
その出来事を感情や体の感覚から、少しずつ意識を向けてみる。
心の目で、一歩下がって観察してみる。
すると少しずつ、その頃の自分に声をかけられるようになってくる。
結果を求めていたけど、「頑張っているその姿勢が何よりも価値があるよ」と励ましたくなった。
その努力、姿勢のけなげさ、純真さに気付いた。
真っ直ぐなその姿勢には、結果すら小さく見えてしまうほどの美しさがあった。
それが自分の中に宿っている。
その自分を誇らしく思う。大事に思う。
できない自分でもいい。
その姿勢と共にあるから。
また一つ、自信を感じる宝物を一つ手に入れた気がする。