無駄を大切にしたいという話
あくまでも個人の主観的な価値観の話なのであしからず。
人生を過ごしていく上で無駄なことに出会う場面はそれなりにある。
プログラムのコードを書いているとき、ただのタイプミスの間違いに気づかず一時間以上、無駄な時間を過ごしてしまうなんてことはあるあるだ。
慣れてくると、タイプミスをしにくくなるし、エラーがでたらまずタイプミスを疑ったり、そもそもコピペを使うようにしたり対策ができてくる。
でも、大抵のプログラマはそういうくだらないエラーに時間を使う時期が必要だと思う。
その中で、コードとにらめっこしたり、無駄に関数の使い方とかいろいろ調べて、そういうのを繰り返していくうちに慣れていく。
大体こういうエラーはタイプミスとか、そもそもエラーの周辺に赤色で下線を引いてくれるエディタを使うべきとかそういうのを体で覚える。
じゃあ最初に教える人が、最初からメモ帳ではなく、そういう専用のエディタを使うべきかと言えば、そうとも言い切れない。
まあ言語にもよるけど、コンパイルして実行とかそのあたりの仕組みが理解しにくいし、よくわからないプログラミングをよくわからないエディタを使って書きますなんて最初から説明されても、聞いている方は何というかフワフワしてしまう感じがする。
だから無駄って案外大切かもしれないなって最近思う。
別にプログラミングの学習に限った話でもない。
職場で同じ会社の人達とする雑談を一切しないと、その会社に馴染めないし、RPGゲームで最初から最強で所持金もカンストとかなら、それはそれで楽しいと思うけど長くは遊べない。
そういう感じでAとBの方法があってAの方が効率がよさそうと思っても、あえてBを選ぶ余裕を持てるとよさそう。
もちろんなんでもかんでも、意味があるから合理的に考えるべきではないなんてことを言うつもりはない。
たぶんその辺はファッションセンスみたいに流行とか周りの状況を加味しつつ、それが自分に合うかどうかも考慮して選択しないといけない。
合理的に考えたら無駄なことも、美意識的な目線で見たら実は無駄じゃないみたいな。
でも書いていて思ったけれど、最近思ったのは無駄の大切さというより、このファッションセンス的な部分が大切だよなと思った。
そんな感じ。ちょっと抽象的になりすぎたか。
合理的な部分と美意識の部分でどっちかに偏るとあんまりよくないからてきとーに生きようってこと。
(この記事で言う無駄はあくまでも自分の判断でコントロールできる程度の無駄について言及してる。だから一応言っておくと政治的にあれが無駄とかそういうことは本題じゃないので。)