ジレンマ
身体がひどく重い。何をするにもやる気が起きない。
お腹は空かないし、特別食べたいものはない。でも扁桃炎の薬を飲まなきゃいけないから、何かしら胃に入れないといけない。
窓の外から聞こえる親子の会話、街中のカフェで友達同士おしゃべりする声、仲睦まじそうに手をつないで歩くカップルや夫婦。
ドロドロした妬みや羨望はもはや一切無いけれど、私も欲しいなぁと思ってしまう。そういう、温もりを感じられる相手。
でもそれと同時に、もう何もいらない、もう何もしたくない、このまま終わってくれたら楽なのになと思う自分もどこかにいる。
生きたくても生きられないような状況に置かれ命を燃やして戦っている人たちには本当に申し訳ないとは思うのだけど、今日の自分は惰性で息をしている感じがする。命を無駄遣いしている。
うわべだけのお世辞まみれの付き合い、中身のないおしゃべり、あるいはお金や地位、利益を得るためだけの交流ややりとりには、もう疲れ切った。
自分自身がその渦中にいることはグンと減ったけれど、都心のカフェで過ごしているとそういう人(たち)を時々見かけてはゲンナリする。エネルギーを吸い取られる。
今日身体に力が湧かなくなったのはたぶん、昨日久々に丸一日都心の街中で過ごして、"そういう人たち"を眺めて、"そういう情報"ばかり目に入って、"そっちにまっしぐらな人"の話を聞いたからなのだと思う。
自分にとっての"余計なもの"を、これ以上無駄に考えたり感じたりしたくないということの現れなのかもしれない。
海辺に戻ってきて、何も考えずに海を眺めて、波音をきいて、水の冷たさに触れていたら、少しずつ回復してきた。
そしてこうして言葉にしていくことで、ただ混沌としていた状態が整理されて、何にエネルギーを取られたのか、何から自分を守るべきかが理解できてきた。
お金や地位や利益 ばかりにとらわれる人生は、嫌だ。
その一方で、そこに何の迷いもなくがむしゃらに突き進める人たちをうらやましいとも思う。
私が羨ましがっているのは利益に向かって突き進めることではなく、何も考えずに何かに突き進める状態にまで、自分を納得させられる理由がある状態なんだと思う。 そして自分は、まだ自分を納得させられるような何かしらの答えが出ていない。
さまざまなスケールや手段で"課題を解決するデザイン"ができるようになりたいと言う目標を掲げながらも、学生時代に学んできた建築と言う専門的な分野を手放すのが怖くて、 まずは建築という"土台となる強み"を持っておきたいと思って社会人になった。
これまでは何もかもが未経験で、とにかく覚えるためにがむしゃらに仕事をしていたけれど、ふとした時に、自分がやりたいと思っていた「デザインを通して、社会にある"あたりまえ"に問題提起をする」 ことが、今の仕事だと難しいということに気づいてしまった。
手始めの土台作りをするのだから、自分がやりたい"デザイン"はできないという事はわかったつもりだった。
でもそれは"わかったつもり"だっただけであって、それが自分にとってどういう意味を持つのか、本当の意味ではわかっていなかったのだと思う。
ここまで言語化できてしまうと、次に自分がどういう行動を取るべきなのか、頭では薄々分かっている。
作りかけたものを手放すことなのかもしれない。そう思うと怖くて、今もっているものにしがみつきたくなる。
すごく、自分らしくない。
学生の頃はやってみたいことがあったらすぐに動けていた。やることに脈絡はなくて、でもそれらは後から繋がっていくこともあった。そしてそのフットワークの軽さゆえに得た強みがたくさんあった。
大学院生の半ばに差し掛かった頃、社会人生活や仕事のことを考え始めた頃から、その"ラフなチャレンジ精神"がどこかへいなくなってしまった。
どうするべきか。 今思い当たる答えは1つ。
でもまだ、その答えを口にするのが怖い。
キング牧師のこの言葉が、今の自分にとても刺さる。
このまま挑戦しないで生き延びても、今日みたいに心が死んでいたら、生きていても楽しめないと思う。彼の言う通りだ。
この言葉を心から理解して、恐れずに立ち向かえるようになる日が来るだろうか。 他人事みたいだけど、そんな日が来て欲しいと心から思う。
そういう行動が取れる自分になりたい。
さて、これから、どうしていこうか。
創作活動費として大切に使わせていただきます。